声で書く

読み始めてから少なくとも一年以上たつが未だに読み終えない本、が何冊かある。途中で投げ出してそのまま読んでない本ならいくらでもあるけど、たまに読んではすぐ中断し、しばらく放置してまた手に取る、ということを何度も繰り返している本はウィリアム・バロウズの『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』とボリス・ヴィアン『北京の秋』くらい。どちらも読み始めるとたちまち脳の中のある部分が活性化して見通しのいい景色が開けるが、そのままページをめくり続けることにはあまり意味を見出せず、筋も全然追えてないうえブランクにより殆ど忘れているから読み方はこの垂直方向の“効き”への期待に特化してもいて、たぶんこの“効き”は初読時が最高なので有効に使いきらないといけない。具体的には小説などを書くための脳内コンディション作りに無駄なく使いたいから、それ以外のときは極力読まない。しかし書くために読む本、というのはこういう一瞬のフラッシュのような覚醒を促す効き方を示す文章だけでなく、時間かけて読み続けることでじわじわとペースメーカー的な効き方をするものも、とくにある程度長いものを書くには必要で、しかしそっちの本はページをちょっとめくってすぐ閉じる、という読み方では効かないからどんどん読み終えて読む本がなくなっていく。こっちの読み方でいちばん確実に効くのが分かっているのはディックの中期の長篇で、使えそうだと踏んでいる未読作品はもう残り少なくなってしまった。何しろ本というのは純粋に“効き”だけを享受するわけにはいかず、書かれている内容とか使われてる言葉とか文体も同時に頭に入って影響してくるので、効く本なら何でもいいというわけにもいかないという問題があるのだ。私はもともと自分というものがないに等しいので他人の影響も受けやすいのだが、影響をみごとに反映してみせるような技術もないから、読む本は慎重に選ばないと大変困ったことになる。とくにもう何か書き始めているときや、書こうとしているものが決まっているときに読む本は慎重に選ばないと、書いているものの途中で平気で声色や口調がその影響を受けて下手糞な(全然似てるわけでもない)物真似を無意識に始めてしまうのである。私はストーリーが書けないから小説を書くときに頼りにするのは自分の書いている文章の中に響く“声”だけであり、声に耳を澄ませることでその持続をたしかめながら何とか書き続けられるのであって、声を見失うと自分が書いているものが途端にまるで何が何だか分からなくなる。だから声さえ同じものが聞こえていれば小説というのは一貫性が保たれるものだ、と信じさせてくれる作家は私にとって貴重な存在であり、そういう意味で今まだ体重を預けるところまでいかないものの期待をこめながら読んでいるのは鈴木いづみで、しかし私の地声は鈴木いづみの地声(で鈴木いづみは小説を書いていると感じるが)とおそらくあんまり似ていない、というところがやや気になるというか、本格的に上記のような意味で導入して使いはじめるには慎重にならざるをえないところではある。つられて物真似が入っても地声が似ていれば連続性が保たれるというよさがあるのではないかと思う