怪談の技術について

 怪談のあたえる恐怖には三つのレベルがある。ひとつめは、それを実体験した本人にとって感じられる恐怖。ふたつめは、それを「体験談」として聞かされた(読まされた)人間にとって感じられる恐怖。三つ目は、それを「体験談」としてではなく「創作」と断りを入れて聞かされた(読まされた)人間にとって感じられる恐怖である。
 第一のレベルの恐怖は、正確にはそれ自体怪談として成立していない。あくまで体験した本人の中で再現され、反芻される恐怖であるが、このレベルの恐怖があらゆる怪談の核となるのは間違いない。つまり、われわれが直接恐ろしい目にあうこと、恐ろしい存在と出会ってしまうという可能性が信じられなければ、そもそも怪談は存在することがないからだ。
 第二のレベルの恐怖は、一般に怪談として流通する物語が発揮する恐怖である。体験者が感じた恐怖そのものではなく、それが話として再構成されたときにあらわれる恐怖である。そのとき体験は取捨選択され、第一のレベルでどれほど恐ろしい体験だったかは問われず、あくまで話として恐ろしい体験だけがこのレベルにまで生き残る。さらに、より話として恐ろしいかたちへと細部の尾ひれをつけられ、恐ろしくない細部は切り捨てられるという変形も被る。それどころか、そもそも第一のレベルでは存在しない怪談が、いきなりこのレベルで生じることもままある。都市伝説のように「友達の友達」というとらえどころのない発信源をもつ怪談がそうだが、そうした怪談であっても、あくまで誰かがどこかで実体験した話であるという可能性を聞き手が受け入れる限り、第二のレベルの恐怖は成立する。
 そして第三のレベルの恐怖だが、これはいいかえればフィクションとしての怪談の恐怖である。第二のレベルと第三のレベルには、本来ただひとつ「実話である」という断わりがあるかないかの違いしかない(第一のレベルは、体験者本人の「実体験」であることは揺るがないから境界がはっきりしており、第二・第三レベルとは断絶する)。ところがこの「実体験」という断わりの有無がなぜか非常に重要で、多くの怪談はこの断わりを失った途端に魅力を大きく減らしてしまう。
 それがどんなに出所の怪しい話であっても、実話である可能性がゼロではないと判断した受け手は、フィクション(つくり話)に接するのとはまるでちがう姿勢でその怪談に接する。実話怪談というものを成立させる何らかの回路に、自分をひらき、接続させるような姿勢を取るのだが、そのことでわれわれが一般に怪談から受け取るあの生々しい背筋の寒い感触が保証されるのである。フィクションであると断りが入ることは、その回路(ひそひそと孤独な体験を交換し、震えながら個人の暗い無意識がそっとつながりあうような回路)からの切断を意味する。ここで第三のレベルへ移行した受け手は、もはや恐怖に対して別人のような不感症ぶりを示すだろう。このレベルで人を恐怖させることは容易でなく、実話(を標榜した)怪談並みの恐怖を与えることはほとんど絶望的にすら思える。
 だがあくまでフィクションであることを隠さぬまま、良質の実話怪談に特有の、あの濃密な気配が背後の死角にたちこめるような体験を再現する技術こそが、われわれには必要なのだ。物語の登場人物の恐怖の追体験などという、安全かつ安易な方法は避けられなければならない。声をひそめて語り合う「だれかが経験した恐怖」のそっと懐へしのびこむような感覚を、あくまで虚構の舞台の上で再現し、どうせ全部作り事だと高をくくった観客を、安全なはずの観客席にすわらせたまま当事者の不安の奈落に突き落としてしまうような技術が求められるべきである。それはひどく倒錯した欲望(なぜわざわざ「フィクション」と断ったうえで「実話」の再現をめざすのか?)なのかもしれないけれど。