貧しさについて

 短歌の定型は不自由で貧しいものだという考えがまず前提にある。今どき57577の制限を受け入れるのになんの抵抗もおぼえない感性を私は信用する気になれない。57577に違和感をおぼえない日本語の使い手だけが短歌に近づけるなら、短歌は現在的な感性に欠陥のある書き手のたまり場ということになり、現在書かれる意味も読まれる価値もまったくない表現ジャンルということになる。
 定型の不自由さが逆説的に書き手に自由を保証する、という楽観的な考え方があって、私じしん作歌にあたってはこの「逆説的な自由」をつねに実感してもいる。もちろん逆説はあくまで逆説、不自由はあくまで不自由なので、逆説的に見い出される自由というのはようするに錯覚のことである。つまりこのばあい自由は錯覚に溺れるもののみが実感できる「貧しい」ニセモノの自由であり、このような貧しさといかがわしさを抜きに私は短歌のことを考えることができない。短歌は貧しくていかがわしいと考える私にとって、短歌が表現者の人生と等身大な自由を保証する媒体だとはとても思えないし、もし本気でそのようにふるまう作り手がいるとすればやはり現在的な感性の欠陥を疑ってしまうだろう。
 定型の不自由さが逆説的に書き手に自由を保証する、というのは一定の範囲で真理であるし、短歌にとっての自由はそのようにしか存在しないのかもしれない。これは楽観ではなく悲観にあたいする事実である。短歌には貧しい、ニセモノのいかがわしい自由しか存在していない。だけど短歌に現在の文学として価値を見い出せるとすれば、この貧しさといかがわしさを生きることの徹底以外にはないように思える。人間や文学の豊かさや真実を心から信用することなどありえないわれわれにとって、短歌の貧しさといかがわしさは逆側から人間や文学のまぎれもない現在性に手の届く条件となる。短歌は箱庭のなかでニセの自由を謳歌するのではなく、箱庭の不自由さそのものとして現在にその全体をさらけだす必要がある。
「映画や文学からの切り貼りにすぎない」と藤原龍一郎に「文体の未確立」を批判された穂村弘は、むしろそのつぎはぎ的な貧しさへの徹底をこそあらためて評価されるべきなのだし、『田園に死す』の寺山修司は自己模倣の末のテラヤマ短歌の形骸が、定型の形骸性とぴたり一致してある種の完全無欠さにいたっていることが驚かれるべきなのだし、斉藤斎藤の短歌が現在の表現たりえているとすれば、定型の貧しさにあえて賭ける意志の存在がまぎれもないからであって、短歌がわれわれにとって読む価値あるものとして見い出されるための回路をひとまず私はこのあたりに見当をつける。

夏の雲 水兵さんが甲板のベースボールできめる盗塁  穂村弘
義肢村の義肢となる木に来てとまる鵙より遠く行くこともなし  寺山修司
元禄寿司従業員控室入口に「会議中」の紙 ぼくもまぜて  斉藤斎藤