混沌か?無か?

 まだほんの少ししか読んでない『映画の魔』(高橋洋)であるが、恐怖表現への現在の私の関心の持ち方は、かつて高橋氏の作品や文章から大いに影響を受けて培ったときのそれとはだいぶ離れたところにきているような気がする。あるいは、もともとそれほど共感できなかった部分(たとえば私は『リング2』や『新生 トイレの花子さん』をいいと思えなかった)が、この本を読んでいてあらためて意識されてきたということかもしれない。たぶんそちらのほうが近いだろう。
 少ししか読んでないくせにすごく大雑把に語ってしまうが、高橋氏が恐怖表現への関心を語るときの重要なキーワードは「渾沌」だとすると、私はたぶんそこに該当する単語として「無」をあてはめたほうがすっきりと落ち着く気がするのである。「混沌」はすべてを混沌へかえそうとする呪われた意志によって呼び出されるが、「無」はそうではなく、いわゆる無意識によってですらなく(無意識は無ではなく渾沌に近いと思う)、いっけん意志をもって恐ろしい事態をもたらそうとしているかに見えた存在が、じつはからっぽな人形だったというようなことである。そして背後に人形をあやつる誰かがいるわけですらない。いるのかもしれないが、人形使いの彼もまたからっぽな人形であり、どこまでさかのぼっても意志にたどり着くことができない。私がおののく恐怖イメージはそういうものである。
 高橋氏の作品には超能力者(霊能力者)がよく登場するのだが、私は映画に登場するかれらの存在を苦手なものと感じることが多い。超能力者は特権的な知覚によって混沌の到来を察知し、物語が渾沌を受け入れるときの触媒になるのだと今ぱっと思いついたまま言い切ってしまうが、そうした事態においては無の出る幕はない。呪いの裏側に貼り付いているのは混沌ではなく無であるという考えに、私は今とてもこだわりたいのである。もちろん高橋氏も恐怖と無(意味)の関係を無視しているわけじゃないことはよくわかるし、無か混沌かなどというのは簡単に入れ替えのきく、大差ない概念じゃないかという考えもできる。けれどここは何としても些末な言葉づかいにこだわりたい気がしていて、私はどうにもやはり混沌ではなく無を支持したいというか、混沌の背後にも無を見たいというか、とにかく渾沌というところで言葉を切ってしまうことになぜかひどく抵抗を覚えるのだった。