マンガは映画と詩の間にあるのかもしれない

西荻怪談の参考になるかもという下心で借りてきた『西荻窪キネマ銀光座
』(角田光代三好銀)という本は、西荻とはあまり関係がないような、しかし濃厚に西荻的なのかもしれないという本だったけど、この本で三好銀という人の描いてるマンガがものすごくいい。私の知ってるマンガの中で似ているものを挙げるとつげ義春カネコアツシなんだけど(ただし絵は似てない)、一話四ページの中にただならぬ密度で畳み込まれた世界が、視線の追いつかないスピードで展開して遠くで視線が追いつくのを待ってるようなこの圧倒的な感じはほとんど類を見ないレベルではないかと思いますね。
手短にいうと詩なんだけど、詩的な話だとか詩的な絵という意味じゃなく、あくまでマンガであることによって詩なのです。
マンガに時間が流れているのはコマとコマの間、つまり描かれていない部分だけであり、描かれてしまったものはすべて時間が止まってしまう、というのがマンガのパラドックスなわけです。
そこを逆手に取るとコマとコマの間で、描かれていない部分の時間を(存在してしまっているものの不自由さとは無縁に)自在に伸縮させる操作ができるわけだけど、マンガのそういう特性を効率的な説話機能と大胆な詩的飛躍の両方にまたがって限界まで使い倒しているというか、話はみごとに語りきってるわ風景はめまぐるしく入れ替わるわで、なんだか読むと一気に目が覚める感じがします。
映画だとカット自体に時間が流れてるから、もっと説話寄りになるというか、カット間の飛躍の部分に詩は生じにくいんじゃないかと思うんですね。テキストでやると(それは詩そのものだ)、似たことはやれなくはないけど言葉というものの間接性が壁になってとっつきにくくなる。そこをマンガはこれだけ話を開放的に語りきりながら、同時にこんなすごい詩にもなれるということを証明するようなぎりぎりの地点で成立している作品だと思う。
ものすごい才能を読んでる、ということが読みながら鳥肌になってあらわれてくるような作品だということです。

西荻窪キネマ銀光座

西荻窪キネマ銀光座