原液作家について

今読んでいる平山夢明ミサイルマン』はやはり圧倒的に面白くてよすぎて読み終わるのが勿体ない。平山氏の文章の魅力のことはみんな意外と言わない気がするが、ものすごい奇想に支配された話の先行きへの興味以上に、いつまでも読み続けていたい文章だと思う。きちんと分析して読もうという気になれないうっとりと客席にお尻が溶けてくっついてしまう文章だけど、それでも気づくところだけ言うと省略=圧縮の多用と、読点の少なさ。つまりセンテンスを息継ぎなしに一気に読ませると同時に、そこにある文字量から予想される以上の情報が読者の頭の中で解凍されてぐんぐん伸びてくる感じ。自分の得意(というほど得意ではないが)分野に引きつけて言うと、短歌を読むのと近い印象で読み進めている。一行ごとに立ち止まって見ほれてしまう文章だ。もちろん文章を内容と切り離して読むことはできないが、内容を文章から切り離して語ることにはもっと無理があると思う。予想を上回る“伸び”をつねに示す文章、が平山氏のストーリーの運びを支えているということでもある。語られていることの末尾がつねに句点の先の目に見えない領域に入り込むので、読者の位置からは先が見通せない。想像することはできるし、想像が当たることもあるだろうが、にも関わらずつねにストーリーの“この先”は(再読であっても)初めて見るもののように死角から現れてくる。知っていることでさえ予想できない。それが真の小説家の書く文章だと思う。そしてまた、そのような文章の書き手であることと、想像を絶する奇想の扱い手であることと、奇想と接し合った無数の体験の持ち主であり蒐集家であることが密接に分かちがたく結びついていることが、平山夢明という特異な才能の本質だと思う。作家にはごく稀少な「原液」タイプと、多くの「カクテル」タイプおよび「希釈」タイプがいるが、平山氏はまがうかたなき「原液」でありながら高い娯楽性を備えている点でも特異な作家である。われわれは読者としても書き手としても、同時代にこの「原液」の恩恵を受けることに最大限の敬意を払いつつ、せめて恥の少ない模倣者になるべく心がけることである。