内外

ツイッターを休止したのはひとことで言うと「このままだとツイッターで一生を終えてしまう」と思ったからである。
それも悪くないかもしれないが、そんな一生はあっけないほど短いのではないかと思ったのだった。
だからツイッターを手放すことで人生の質を全体的に上げていろいろなことを回復しようと考えた。私は自分のツイートを読むのがとても好きなので新しいツイートが読めなくなるのは残念であるが、なぜ私が自分のツイートを読むのが好きかというと、私のツイートは私が面白いことを考えたり書いたりするエネルギーを24時間体制でしぼりとられていった結果だからであるとわかった。
そしてその24時間は、多数の他者の内面をつねに覗いているのだと感じさせる24時間でもある。
私はかなりのヒキコモリ体質であるので、他者の外面にまったくふれない一日などまったく珍しいものではない。つまり内/外の他者の登場バランスを著しく欠いているのである。
まるでテレパシーのように考えていることが目に飛び込んでくるのが普通だと思っていると、じっさいに会ってみるとその人が何を考えているかなど何時間一緒に過ごしても文字にして一文字分もわからないのだということがわかってびっくりする。
そしてそのことは素晴らしいことだと思う。目の前にいる人間というのは考えていること以外のあらゆることを丸出しにしてそこにいるのだ。
というわけで私は私が何を考えているか分からない世界に帰ってきたのではないか。