小説はミステリに屈服する

すべての小説はミステリに似ている。なぜなら小説と読者の立つ場所には、必ず決定的な段差が存在するからで、それは事件と探偵の位置関係と同じだし、それをなぞったミステリとミステリ読者の位置関係とも同じである。

小説はいつも読者に先行して存在し、読者は小説のいったん辿り終えた道をうしろから追いかける。すでに完遂された事件=小説に対し、読者は決定的に遅れてきた立会人としてある。この位置関係のために、読者はすべての小説を無意識にミステリとして読んでしまうし、読者にとって今読みつつある小説は、謎につつまれたものが徐々に姿をあらわす過程として体験されるしかない。



(そう、謎というのはつねに過去に属している。未来に謎はない。未来はまだどこにも存在しないのだから、霧の奥に隠されることもないのだ。そして小説は読者にとってすでに存在するもの、つまり過去の所属であるために、すべての小説は謎をはらんでしまうのである)



小説と読者のあいだにある段差。この段差こそが小説を読みたいという欲望を刺激し、大量の読者を生み出す位置エネルギーのようなものを小説にもたらしている。我々は小説から決定的に遅れているからこそ、何としても背中を追いかけたい欲望にかられるのだ。今まさに目の前で起きつつある何ごとか(事件であるかどうかさえまだ分からぬもの)への関心ではなく、すでに駒の出そろった事件(事件であることが確定している)の全容を見届けたいという欲望が、小説の読者を生んでいる。現在進行形の輪郭の定まらない出来事ではないからこそ、小説には読者の過大な期待の視線が向けられることになるだろう。完成品(過去の別名)への期待である。



小説の作者は、この期待の視線をさばく必要がある。小説はつねに読者に先行して存在してしまう。読者は遅れてきた者の特権とでもいうかのように、期待にみちた目を小説に向けてくる。完成品――つまり作品に結末があること。いいかえれば、結末から全体を振り返ることに意味のあるような作品、を期待しているのが読者というものだ。

ここで作者は大いにとまどうかもしれない。なぜなら彼が書いているのは、小説ではあるがミステリではないからだ。つまり彼は来るべき謎解きのカタルシスにむけた伏線として「過去」を記述しているつもりはなく、つねに今この場の「現在」の集積として小説を書き続けているつもりなのだから。それがまともな読者に伝わらないはずがない、と思うかもしれない。

たしかにそれは読者にも伝わる。読者はどんな未来とも密約を交わしていない小説の「現在」を、読みたどる細部のうちに正確に感じ取ることだろう。その一方で、読者と小説の位置関係がもたらすあのミステリ的力学は、そうした細部の発揮する力とは無関係に(あるいは交差して)その場を支配してもいる。読者は細部に込められた「現在」の熱にたっぷりと浸って満足げな顔をあげると、ふと冷静な声でこう呟くだろう。「で、このあと結局どうなるの?」。



読者の視線は、つねに来るべき未来の「すべての謎が解ける地点」をさぐろうとしている。あらゆる小説はその視線の動きを止められない、小説が小説である限り。なぜならこの視線の欲望がなければそもそも、誰も小説など読まないのだから。

小説はミステリに屈服する。ミステリは小説の一ジャンルなどではなく、視線を操作する普遍的な形式である。この形式の支配下で、居候するように小説は存在を許されている。ミステリの支配下で、小説の読まれつつある「現在」はつねに未来から振り返られるだろう「過去」として読み替えられ続けている。来るべき未来にこそ最も価値があるとでもいうような、屈辱的な扱いにも小説の「現在」は耐えなければならない。

どこにも存在しないはずの真相=犯人をもとめて歩きまわる、気もそぞろな読者たちによって無残に踏みつけられ、たちまち忘れ去られるばかりの細部。だがそんなものにこそ小説の魂が宿るのだとうっかり思い込み、馬鹿馬鹿しい錯誤の力に突き動かされでもしないかぎり、人は万に一つも小説など書くことはできないのだろう。形式の不自由に厳重に縛られながら、錯誤の自由を信じきってあらぬ方向へ邁進……この分裂こそ小説家の資質というものかもしれない。

2002/12/19