小説に幽霊は本当に出るのか?

怖い小説を書く、つまり恐怖という意味を描いた小説ではなく、それじたい恐怖そのものであるような小説を書くにはどうすればいいのか?

このひどく漠然として、しかし長いこと頭からずっと離れない問いについては、これからも時間をかけて少しずつ考えてみたい。今回はおもに持論の復習として書く。



たとえば、幽霊が出る小説を書くとしよう。小説に幽霊を出すのはじつに簡単なことだ。

俳優に死人のメイクを施す必要もないし、紙の上に白装束の女をそれらしく描き込む必要もない。

「幽霊が出た。」と、ひと言だけ書けばいいのだ。

だがこれでは、小説の中に幽霊が出たというにすぎない。たとえば映画の中やマンガの中に出すことと比べたら、ほとんど何もしないに等しい操作だけで、小説の中に幽霊は出る。

問題は、小説の中に出た幽霊が、読者の前にも同時に出ているとは限らないということだ。



これが映画の中に出た幽霊ならば、どんなに不出来な物であっても、幽霊が映像として差し出された時点で一応は、観客の前にもそれが「出ている」ということができる。映像にはもともとそういう説得力が備わっている。何しろ観客はたしかにそれを「見た」のだから。

だが小説に「幽霊が出た」と書かれていても、読者にはピンとこない。幽霊という言葉は、幽霊のメイクをした役者とくらべてずっと「本物」に対して間接的なものだ。小説に「幽霊が出た」とだけ書かれているような状態は、小説の中の人々には深刻な事態かもしれないが、読者はあくまで小説の外にいるのだから、しょせん無関係な、他人事にすぎない。



幽霊を、小説の外へ出さなければならないのである。

とはいえ、読者が今小説を読んでいる部屋の片隅とか、枕元の暗がりに幽霊を出すことは、小説にはできない。小説はあくまで小説に属している場所でしか何かをすることはできない。

小説に属していながら、つまり小説の一部でありながら、同時に小説の外でもあるような場所を考えよう。そこにもしも幽霊を出すことができたなら、それは同時に読者の前にも「出ている」幽霊だといえるのではないか。



小説の一部であり、同時に小説の外であるような場所。

それはたとえば、物語を構築する意味のつらなりとしての文字列、文章というものが、同時に我々につきつけている「無意味のつらなりとしての文字列」として発見することができるだろう。

小説の文章というのは、ひとつの物語(あるいは、物語と似たようなもの)を読者の頭の中に構築する「意味のつらなり」である。

と同時に、そうやって姿をあらわした構築物からいったん目をそらしてしまえば、たちまち「無意味のつらなり」あるいは「意味の断片」としての状態に戻ってしまうものだ。そういう危ういバランスで小説は成り立っている。

言葉は砂の城のように物語を築き上げるが、城の周囲には、いまだ何も形をなしていないただの砂が、場合によっては、城を圧倒するほどの量で無数に存在している。小説とは、そのような一種の砂場にたとえることができる。



「意味のつらなり」として強力な磁場をつくり出しておきながら、そのつらなりとは別の、つまり意味から排除された「無意味のつらなり」の側に幽霊を描き込んでしまうこと。

砂の城を確固として構築すると同時に、周囲に残された砂で、もうひとつのニセの城をつくってしまうこと。

あくまで読者の視線は、物語にひきつけられていなければならない。読者が小説イコール物語であると信じ込み、物語にとりこまれていない「無意味」が小説の言葉に紛れ込んでいることを、まるで意識していない状態をつくりだすのである。そして意味のつらなりの一本道を、読者が終わりに向かって歩き続けているとき、そこを横からふいに襲う無意味の「幽霊」。

物語をたどりつつある立場からはありえないはずの方向、つまり物語以前の言葉がちらばる左右の暗闇から突然あらわれ、ふたたび視界から消えてしまう一瞬の影として、幽霊を描き込むのである。



このような出現をみせる幽霊については、以前芥川龍之介の「蜃気楼」という小説について指摘したことがある。(「小説にお化けが出る瞬間とは何か?」

「蜃気楼」にはごく日常的な散歩の光景が描かれている。主人公たちが見に行こうとする「蜃気楼」を先取り、あるいは代替するようなさまざま錯覚や不気味なものが、かれらの前にあらわれるのだが、それによってドラマが生じるでもなく、主人公の内面のドラマチックな動揺が描かれるのでもない。物語の次元においては、きわめて淡々と小説は閉じられる。

ところが、それだけの(淡々とした)物語の「城」を築くにしては、あまりに多くの「砂」がこの小説には集められている。「城」の内部を歩いている読者は、城のとなりで残りの「砂」が、何か異様な形を為そうとしていることに薄々気づくし、それがとうとう城の内部に入り込む瞬間さえ、最後には目撃するだろう。



ひとつの「意味」をつらねていたはずの小説の言葉が、同時に複数の「無意味」さえもつらねている。それら「無意味」がふいに、物語をつむいでいるのとは別の、もうひとつの「意味」に変わって物語を襲う瞬間、幽霊は読者の前に姿をあらわすのだ。

その決定的な瞬間が、小説が物語としてさしだす幽霊登場の場面と、みごとにシンクロを果たした場合、その小説は名実ともに「幽霊の出る小説」として完成するのである。

2002/02/05