さらに、小説と幽霊のこと

小説に幽霊が出るためには、その小説が予め「幽霊の出そうな場所」になっている必要がある。



なぜなら幽霊とは「幽霊の出そうな場所」以外には出ないものだ。「出そうな場所」を準備することなく、いきなり描かれた幽霊はニセモノにしかならない。

「出そう」な空気が高まっている場所に出るのが幽霊である。そうでない場所に出るのは、幽霊のふりをしたもの、幽霊をかたどったものにすぎない。



逆にいえば、「出そう」な空気を周到に準備して、まさにこの瞬間この場所に幽霊が出るだろう、というお膳立ての整った時点で、幽霊はすでに半分出ているも同然だ。

幽霊を小説に出すということは、幽霊を書くというよりも、幽霊の出そうな小説を書くということなのである。

あるいは、幽霊を小説に直接書くことはできないのかもしれない。幽霊の現れるにふさわしい環境を書き込むことで、作者は、間接的に幽霊誕生と関わるしかない。そういう可能性もある。



前回あげた芥川龍之介の「蜃気楼」という作品は、小説を幽霊の出そうな風景に作り上げてしまうことで、幽霊そのものを書き込むことなく、読者の視界に幽霊を(気づく者だけが気づく、という程度のさりげなさで)しのびこませた例だった。

正確にいえば、しのびこむのは幽霊ではなく語り手「僕」の分身である。小説を語っている「僕」という一人称が、彼自身の語っている言葉の中に含まれ、しだいに形をなしてくるもう一人の存在にふいに襲われる(それを目撃するのは読者だけ)、という構造を読むことができた。



ここには、「幽霊の出そうな場所」のひとつの極端な例を見ることができる。つまりこの「場所」は、かなり積極的に「幽霊」の登場にかかわっている。小説の差し出す風景の中に「幽霊」の部品が予め描かれていて、読みたどるうちに部品が集まり、最後にはパズルが完成するように「幽霊」が現れる。そういう読み方が可能だった。

部品のそれぞれは、風景の一部にふさわしい何かに擬態しており、じつは「幽霊」の部品であったということを最後まで隠している。それによって、この小説は「幽霊の出そうな場所」になることと、「幽霊」そのものになることに同時に成功している。

小説がもしも、幽霊を直接に書くことができないものだとすれば、「蜃気楼」の方法は貴重な成功例かもしれない。





青空文庫よりhttp://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/147_15135.html"芥川龍之介「蜃気楼」

2002/02/12