不自由について

小説を書くことは、自由と不自由のあいだで書くということである。あるいは、無限の自由を有限の不自由に置き換えていくように、小説は書かれるだろう。

それはどういうことか。小説がまだ書き始められる前、目の前には無限の自由が広がっている。だが一行目が書き記されたとき、その自由は部分的に、だが決定的に奪われる。原則としてあらゆるものが、あらゆる書き方で書かれることが可能だった場は、一行目の出現によって、少なくとも「あらゆるもの」が一行目との関係においてしか書かれることのできない場に変貌する。そして二行目以降、この「関係」は増大するばかりであり、不自由はさらに増し続ける。

しかし小説を書くということは、この不自由を受け入れることでしか実現されない。言い換えれば小説を書くことの無限の自由は、「小説を書かない」ことでしか保持されないのだ。

小説を書き始める前の自由を思えば、書き始めてしまった者はつねに「こんなはずではなかった」という悩みに取りつかれている。そこで悩める者は、書かれてしまった何行かを消去してみたり、ときにはすべてをいったん白紙に戻すことで、ふたたび自由を回復し、そこからやり直しをはかろうとするだろう。

だが一行目の自由に多大な期待をかけるのは間違いである。その期待は幻滅しか生まない。一行目だけを永久に書き換え続ける、という悪夢から逃れるためには、小説を書こうとする者はむしろ初めから自由などなかったかのように、二行目の不自由からこそ書き始める覚悟が必要なのだ。

2002/03/22