小説を書くことの簡単さについて

小説を書くことは、実はひどく簡単なのだ。なぜなら、たとえばリンゴというものを小説に書こうとしたとき、リンゴのことを表す「リンゴ」という言葉があらかじめ存在するのだから、書き手はそれを使えばいいし、原則としてそれしか使いようがない。そして読む側は、「リンゴ」と書かれていれば何の疑いもなくリンゴのことを思い浮かべる。そういう約束があらかじめできていて、約束を成り立たせる記号もすでに大量に準備されているところから、小説は書き始められる。



「テーブルの上にリンゴがあった。」と書いてあれば、読み手はただ「テーブルの上にリンゴがあったのだな」と納得するしかないし、もしも納得がいかないのなら、そういう人はそもそも小説を読まないはずだが、我々の社会はここで素直に納得して読み進めてくれる読者というものを、大量に育ててくれているのだ。すでに小説を読む準備の整った人々に向かって小説は書かれていく。



この「簡単さ」はしかし致命的な弱点をもっている。小説は読者との間に、言葉という約束事の共有を前提とするため、言葉にないもの(なっていないもの)を描くことがひどく困難なのだ。何を描くにしても、あらかじめ言葉として読者と共有されているものに置き換えずには描けない。つまり小説の場合、どんなに変わったもの、珍しいもの、見たこともないものを描こうとしても、それが読者にはどうにもありふれたものにしか思えない可能性が高い。



たとえば「身長五メートルの人間」というものを小説に書いたとする。たしかにそんなものが目の前にいたら驚くが、小説にそれを書くことはあまりに簡単なので、読んでも驚く余地はない。おまけに「身長」も「五メートル」も「人間」もありふれた言葉であり、だからこそ読者にすんなり読ませることができるのだが、「身長五メートルの人間」という字面にふれたところで、読者はそこから何の刺激も受け取らないだろう。



小説は言葉で書かれるために、読者との間にあまりにも「話が通じ過ぎる」のだといえる。話が通じるということは、意味を正確に伝えるということだが、意味が伝わり過ぎるために、意味以外のものが伝えにくい。だが、意味を重ねつつもそこへ無意味を呼び込む、そこから無意味に到る、という契機を持たない小説は致命的に退屈である。小説である限り、「リンゴ」という言葉がリンゴという意味を読者に伝える、という機能に頼らざるを得ないのだが、にも関わらず「リンゴ」がリンゴでなくなったり、「リンゴ」以外の言葉がリンゴになったりする瞬間がない文章は、小説として読むべき価値を持たないのだ。

2002/03/10