小説的視界について

小説において、風景はつねにゆっくりとあらわれる。小説の読者は、風景を瞬時にして視界に収めることはできない。まずはじめに時間が存在し、読者はある程度の時間の流れを経験したのちに、事後的に、ようやく風景を視界に収めることができる。



たとえば、小説がある部屋の様子を描くとしよう。そこには日に焼けて変色した畳があり、掃き出しの窓があり、花柄のカーテンがかかっている。部屋の中央には卓袱台が置かれ、その上には読みかけの新聞が開かれていて、紙面には「巨人連敗」という文字が読める。

これらのものを、小説は同時に描くことができない。畳と窓、カーテン、卓袱台、新聞とそこに書かれた文字、これらを、小説は順番に示していくことしかできない。つまり「順番」を可能とするような条件として、小説には風景よりも前に「時間」が存在することになる。



だが、順番にひとつひとつ示されていく事物は、言い換えれば、入れかわり立ちかわり読者の前にあらわれるのである。窓の存在が示されているときには、すでに読者の前に畳はない。「巨人連敗」の文字が示されているとき、すでにそれが印刷されていたはずの新聞そのものでさえ、読者の前からは退いてしまっている。

このように時間の流れの上で分断され、きれぎれになった風景を読者は、いわば残像の集合として視界に収めることになるのだ。掃き出し窓が示されているとき、変色した畳は、窓の背景に幽霊のように残留している。さらに花柄のカーテンが示されれば、たった今示されたばかりの窓も幽霊と化して、カーテンの陰に取りつくだろう。卓袱台、新聞、そこに書かれた文字……次々と現前する事物と、入れ替わって背景に退き、残像と化す事物。「巨人連敗」の文字を読者が読んでいるとき、これら残像の集合は読者の中で「部屋」としての視界をぼんやりとつくりだしているだろう。

小説的視界とは時間の産物であり、残像の産物なのだ。



(ところで映画の場合、最小単位であるフィルムの一コマにおいてすでに視界が存在する。その視界を連続的に見せることで、つまり「残像」を利用することで事後的に「時間」をつくりだすのであるから、視界と時間の関係が小説とはちょうど逆向きだといえる。おもしろい。)

2002/04/05