遅れてくる意味

ナチュラル・ウーマン』松浦理英子
 読んでいるときや読み終えた直後よりも、しばらくたってから遅れて読後の感情がかたちをとりはじめたらしく、気がつくとこの作品のことを考えていたりふいに涙腺にこみあげてくるものがあったりする。
 小説の言葉よりも遅れて意味がおとずれるというか、そもそも構成からして(この作品は三つの短篇の連作のかたちを取っているのだが)、はじめに呈示されるのはかつて別れた相手との関係が影を落とす現在であり、別れにいたる経緯(つまり現在に影を落とすほどのその重み)は最後の短篇でようやく示されることになる。つまり最初の短篇の〈意味〉は最後の短篇を読むことで遅れて理解されるのであり、また最後の短篇において進行する破局の過程の取り返しのつかなさは、すでに読まれている二編において破局後の時間を生きる主人公を知ってしまっている読者にとっていっそう絶対的なものに印象づけられる。
 〈意味〉がようやくかたちをとり始めたときには、すでに〈意味〉が所属していた時間は過ぎ去ってしまっている。それがこの小説に一貫する遅れの原理であり、この原理が主人公の(とくに最終話で)生きている取り返しのつかない時間の感覚と一致するために、読者は主人公が一人称の語り手として言葉にする感情の経験以上のものをこの形式から経験してしまうのだろう。