自選五首&蛇足

●鍵穴をくちびるに持つドアとして天国に立つ諦めながら
(ありがちなメタファーとして読めそうなのに、わずかにねじれが生じているため読めば読むほど答えにたどりつけない、という歌が好ましいと思う。親しい人の顔を見かけて気軽に声をかけようと思うのだけど、なぜか名前がまったく頭に浮かばないためにじつは知らない人だったと気づくような、読後そういう背筋の寒さをおぼえるような歌がいい。そういう歌がいいなあという気持ちが若干あらわれている歌かもしれない)

●くちびるにハイビスカスを震わせて連絡を待つ あらあらかしこ
(またくちびるだった。くちびるという語が妙な印象を残すのは「くちびる−くち=びる」。びるって何? ということを頭が考えてしまうからかもしれない)

●墓石を小窓のように磨く手が墓のうちなる手とさぐり合う
(見たままありのままの現実の光景が同時に、非現実のありえない光景に反転してしまうような歌が前から理想だった。磨かれていく墓石の表面に映り込んだその腕が、墓の内側からさぐるもう一本の腕に反転する一瞬の可能性を、入ってみるたびどちらへ転ぶか分からないふたつの入口をもつ迷路のような歌として示したかったのだが、どうだったか。これではまだ完全ではないが、理想に一歩近づけたとは思う)

●逃れないあなたになったおめでとう朝までつづく廊下おめでとう
(あいさつの言葉には変なちからがある。呪力と呼んでしまうと呪力という言葉がひきつれてくるイメージがいやだから言わないが、「ありがとう」「おはよう」「いただきます」「おやすみなさい」これらのあいさつがただ置かれただけで空気が変わるような効果が確かにある。まして本来そぐわないはずの文脈に置かれたときの効果はどうか、試してみるだけの価値はあったと思う)

●遠くでも犬だとわかるその影をひきずりながらどこまでも坂
(歪んでいる。坂にいるのは誰なのか。ひきずっているのは犬なのか影なのか。複数の入口と複数の出口をもつ迷路は成立するか? 短歌は定型という外壁が前提にできるため迷路化にふさわしい文芸ジャンルだが、このジャンルの背骨といわれる「私性」はたったひとつの入口と出口を短歌に要求しているようにも思える。ならばむしろそのことを利用できないか? 複数の出入口がただひとつの出入口に見えてしまうような錯覚のために、「私性」読みの尻馬に乗ることはできないか? 読むたびに別々の「私」がそれなりに一貫性を偽装してたちあらわれるような読みの誘導、どの「私」があらわれても口から肛門までの一本道を漏れなくそなえており、たしかにここにいるのは「私」らしいと読者を安心させるために迷路を「私」のかたちに似せるとすれば、複数の出入口も成り立つのではと考えてみる)