『gift』古川日出男

 掌編小説を読んで物足りなさを感じることがあるとすれば、それは掌編だから「もっと読みたい」にもかかわらずあっというまに読み終えてしまうから、物足りないのではない。「もっと読みたい」という気分になるより先に、作品を読み終えてしまったから物足りなく感じるのである。
 読んで物足りなさをおぼえない、充実した掌編小説というのは、その短さの中でも十分読者に「もっと読みたい」という気を起こさせるものであり、にもかかわらず、本当はその短さが作品にとって最適の長さであるような小説なのだと思う。つまり読者は「もっと読みたい」という気持ちでそれを読み終えたのだけれど、じつはもっと長く読み続けたところで、今読み終えた時点で感じている印象がそのまま持続したり、さらに増大するようなことはないのだということを、本当は知っている。
 語られるべき言葉はすべてすでに語られており、だから短さへのとまどいはたしかにあるにしても、読者はそれがやむを得ない短さであることを承知してあきらめてもいる。したがって「もっと読みたい」という気持ちが小説に書かれていない物語のその先へ向かうよりも、ふたたび冒頭へもどって何度でも読み返すことのほうに読者の欲望を向かわせるのが、正しい掌編小説の(ひとつの)ありかただと思う。
『gift』に収録された19篇は、いずれも言葉が未知の風景をその場で切りひらいていくようなスリルがあって、つまり言葉が緊密に編まれているから掌編だからといって作家の手慰み感というか手抜き感はまったくない(手慰み感のある掌編は読むのがつらい)。短さの中でこそ効果を上げると思われる異様なイメージを、言葉で上からなぞっているのではなくあくまで言葉の緊密な連携によってその場で立ち上げていく。読者をぐいぐい引き込み「もっと読みたい」という気分をかきたてることに成功した文章ばかりである。
 したがって少なからず刺激のある読書だったのだが、残念なことにどの作品も結末にいたって読者を冒頭に送り返す力にはやや欠けているというか、作品の謎(収録作はいずれも謎=情報の欠如=語り落しを含んでいる)が内部に閉じ込められるよりも、結末部において作品の「その先」へむかってそれまで緊密だった言葉がやや緩むことで、謎を作品の外へ向けて放り出そうとする気配というか、なんだか作品内で完結しない暗示的な姿勢があってそこが気になった。謎は作品の内部に十分閉じ込めるべきではなかったか。
 ショートショート的なオチ(意外な結末)をつけないことに気を配り、あえて曖昧な結末に持ち込むという選択には半分共感するけれど、曖昧ではあれ(あるいは曖昧な結末というスタイルでの)結末は結末として、それなりに比重のかかった書き方になっていたとも思うし、この曖昧さは意外なほど読後感を支配する。もともと掌編においては結末の比重が、結末の印象でそれまで読んできた全体を軽く記憶から消し去るのも容易なくらい高い。じっさい『gift』の収録作は結末部分でせっかくの魅力を半減させていると思う。読者を冒頭へ送り返すために必要な完結性をうばっている。
 無造作に、唐突に小説を終らせることほど難しいことはないと思う。曖昧な結末と無造作な切断は似ているようでじつはまったく似ていないのである。