小説の記憶喪失

 私が長い小説(と感じるのはいわゆる掌編を除く短編以上=ほぼすべての小説のサイズなのだが)を書き上げるのを非常に苦手にしている――と言っても別に掌編なら中々のものだとか「インターネット作家」的夜郎自大を発揮したいわけではなく、単に掌編以上の小説が膨大な無為の時間の傍らでろくに完成にすら至らないことを指している――のは、たぶん私が何か病名が必要なくらいに記憶力の極端に足りない人間であることと無関係ではないと思う。
 つまりすごく単純にいえば私は小説を書いている途中で、自分がいったい何を書こうとしていたかよく思い出せなくなるのだ。細かくプロットや設定を固めていわば設計図に沿って小説を書くようなやり方は端から自分と無関係だと思い、簡単なメモ程度のものしか用意しないで書き始めるせいもあるのだろうが、私は自分がいったい何を書こうとしていたのか忘れてしまっていることにある日突然気づく。または、書こうとしているものが途中でまったく別なものに変っている(小説が意図からずれてしまうだけでなく、意図自体が途中で知らないうちに変化してしまっている)ことを、読み返したときに気づいて愕然とする。
 自分が書こうとしてるものが何なのか、私が見失わずに書き上げられる文章の限界量は、恐らくパソコンのモニタ上で一度に見わたせる程度の字数である。スクロールされ視界から消えていった文字はもはやそこで私が書こうとしていた何事かとともに忘却の彼方へ。もちろんいくらでも遡って読み返すことはできるが、読み返された文章には私がそれをどういうつもりで書き記したのかは書かれていない。文章というのはそこで書こうとしていることのうち常に一部分しか書かれておらず、大半のことは先送りにされることで一種の意図せざる伏線(書かれるべきことがここで書かれていない=それが書かれる時がいつか来るという予期を与える)をはらんでおり、それがエネルギーになって先へ先へとつながっていくものだと思う。
 ところが私は、記憶容量の極端な少なさゆえに、こうした場面における書き手の読者に対する優位、を確保することが出来ない。書き手はつねに文章から「書こうとしていること」の大部分をはみ出させており、読者はそのうち実際に書かれているものしか目にすることができないから、書き手が上記のような力学(つねに書ききれなかったことが先送りされ続ける)にまきこまれて書き綴る文章を、さらに一歩遅れて読み進めることになる。だが私は自分がいったい何を書ききれなかったのか、何を先送りにしたのかを文章を書いている途中で忘れてしまうのである。それでは読者の立場とまるで変らなくなっている。しかし私が私の書きつつある文章の読者になってしまっては、誰もかわりにそれを書いてくれる人はいなくなる。しかたなく私は自分で先を書き続けるのだが、以前の記憶を失っている私はもはやその文章の作者ではないので、途中までのもはや今の私には意味の不明な「伏線」は放置したままあらたに「伏線」が書き込まれてしまい、やがてまたそれらも同じように放置されるときが必ず来る。
 やはり書き始める前には、膨大なメモを書きとめておくべきかもしれない。しかしメモが「膨大」なものになるとしたら、その途中で私はきっとそのメモを律している法則というか、いわばメモに「書こうとして書ききれなかったこと」を見失うに違いない。つまり初めのほうに書いたメモの意味がわからなくなることは目に見えている。だから私はこのような自分の資質に逆らってどうしても小説を書きたいというなら、そもそもメモの必要がないような小説を書くしかないのだと思う。文章に意図せざる伏線、書こうとしてそこに書ききれずにはみ出してしまうもの、がほとんどないような、あったとしても無視して構わないような文章で書かれている小説。パソコンのディスプレイに一度に表示される文字量以上の記憶を持たない、つまり書き手の記憶容量を超えるような記憶を、はじめから与えられていない、期待されていない文章で書かれている小説。そのような小説とは具体的にどのようなものか、私はそこから考えることで小説を書き始めようとするのだが、考えているうちに何を考えていたか例によって忘れてしまい、結局いつもと同じような(私にはどだい無理な、完成に至るはずのない)書き方で小説を書き始めてしまい、あとでその惨憺たる出来に気づいてしまったと思い、こうしてまたふり出しにもどって「記憶喪失の文章で書かれた小説」のことを唯一の希望のようにすがる気持ちで考え始める。