「あたらしい小説」の自由

小説には、きまった書き方というのはない。小説はどう書かれようがまるで自由であり、その自由はまだまだ使い切られていない、と言えるだろう。我々の知っている小説の多くは、みな驚くほどよく似ている。つまり、それらの作品群と少しも似ていない小説が書かれる可能性は、いまだ無限に近く残されているということだ。

だが、我々がまったく知らない書かれ方をした小説は、同時に我々には読み方の分からない小説でもある。我々は新しいものと出会ったとき、自分のよく知った古いものとの比較によって、それを受け入れるか否かの判断をする。あたらしい小説は、皮肉にも、古い小説とどこか似ているがゆえに読むことができるのだ。

その小説が残している古さ、あるいは他の小説との類似を手がかりにして、はじめて読むことができるし、そのうえで「あたらしさ」なり「独自さ」なりがあらためて発見し直されるのである。おそらくそのようにして、昨日まで知られてきた「小説」と、今日からの「小説」はほんの少しずつずれ続け、我々は新しい小説を受け入れる準備を、日々わずかずつ続けている。自分でも気づかないほどにゆっくりと。

書き手の目の前に広がってるのは無限の自由だが、それは「読まれないこと」の自由でもあるのだ。読まれることを条件としたとき、視界は一変するのである。

2002/05/24