かぼちゃを煮すぎながら

読んだ小説
●『白バラ四姉妹殺人事件』鹿島田真希
●「五郎の読み聞かせの会」福永信(『群像』9月号)
●『クビツリハイスクール西尾維新
 南瓜の煮物をつくったら煮すぎてとても不味くなった。南瓜を煮ると必ず煮すぎて不味くなるので、それに懲りてしばらくは南瓜を買ってこないのだが、しばらく買わないでいると南瓜を煮すぎたこともすっかり忘れてしまい、忘れてしまうと南瓜をまた買ってきてうっかり煮すぎてしまう。だから私は煮すぎて不味い南瓜ばかりをたまに食べ続けることになっている。
『白バラ四姉妹殺人事件』は語り手がいつのまにか入れ替わるところなどトリッキーでおもしろかった。全体にものごとをはっきりさせない曖昧な書き方がなされている。ふたつの異なるもの(母と娘、など)が意図的に混同されてしまうような語り。母と娘と息子からなる家族が主人公で、新聞沙汰になった事件の舞台であるもうひとつの家族(母と四人の娘)がいて、ふたつの家庭の類似やひそかなつながりが示されていく話だが、全体に暗示的で曖昧な小説の中で、核心ともいえそうなある部分とその周囲だけ暗示で終らず、ところどころ直喩的に語られてしまうのはちょっと親切すぎるかと思う。そこをはっきり書いてしまったら今までせっかく暗示的だったものが無駄になる気がして惜しいと思った。
「五郎の読み聞かせの会」はねじ式みたいでおもしろいなあ。
クビツリハイスクール』は地の文と会話文の連携(主人公=語り手の心内語と思しき地の文に対し、ほかの登場人物がじかに反応を示す)が多用されているのだけど、それが渡部直己のいう「テクストに対する読者の介在=共謀性」というよりも、主人公の内面が隅々までいきわたった作品世界、他者のいない世界という印象をあたえるほうに作用している。
 あとゲームもアニメも知らない私はほとんど想像で判断するわけだが、この小説には作品内では明示されてないルールの存在が感じられ、それはたぶん別ジャンルのものに依存しているのだろうなと思う。そのためか、かなり空転ぎみの文章なのに不思議と作品として一貫性は保たれているし、脳天気な書き手がおちいる「書かれた言葉ではなく、書かれた内容の現前性への無条件な信頼」とはまったくべつなかたちの何らかの信頼が(書かれた言葉以外のものに対して)強固にあるのを感じた。大塚英志の本に書いてあったような、これがつまりゲームやアニメを小説に書き写しているという感じ、なのかもしれない。
 読んでいてディックにもそういえばこの感じ、書かれた言葉そのものではなく、内容の現前性でもない、ここ(小説内)にない何かへの強固な信頼みたいなものがあるのを思ったけど、たぶんディックの場合テレビやラジオや新聞、といったマスメディアが外在的なルールとして参照されてたんじゃなかろうか。
 それでまあ『クビツリハイスクール』は読むべき少しの言葉と、読まなくていい大量の言葉でできているという感想はあって、少しなんとかならないのかと思ったり、でも読まなくていいほうの言葉が全部台なしにしてるという感じでもなくて、これはこれでいいような気もするし、これじゃまだ面白くなりそうな小説の下書き程度なんじゃないかとか、でも清書された状態が想像しきれないならそれはもう完成品なのかもしれない、とか。いろいろ考えるのはおもしろい。