愛と切貼

オバケヤシキ―異形コレクション〈33〉 (光文社文庫)』に入っている大槻ケンヂ「ロコ、思うままに」を読んだ。大槻氏の小説は登場する人物やアイテムや設定などに既存の作品(作者自身によるものも含まれる)からの引用感がくっきりと現れているというか、それがどこかべつな場所から切り取られてきた(あるいは具体的な作品などの背景とは別に独立して保存されてきた)事物である事をそのくっきりとした切抜き線の見える輪郭が雄弁に語っている。目の肥えた読者による鑑定を必要とする精巧なアイコラではなく、誰の目にもあきらかな切り張り絵巻であることをむしろ作品のエネルギーに使用するタイプの作家であると思われる。
 私が大槻氏の作品に惹かれる理由の大部分はそこにあるのではないかと思う。似たような感触を作品におぼえその点にこそ強く惹かれるほかの作家はたとえば岡崎京子である。岡崎氏もよく指摘されるようにさまざまな引用を駆使する作家と言われるが、引用の身ぶりを見せること、つまり引用元のカタログとしての作品によって自らの趣味のよさを誇る、といったさもしい態度で作品がつくられていないことも両者に共通している。つまり引用する対象への作家の偏愛が無邪気に露呈され、引用元もけしてマニアックとはいえないむしろベタなものが選ばれやすいし、それは大槻氏で言えば江戸川乱歩夢野久作といったその方面の文化では大メジャーといえる人物を、さりげない引用に留まらず時にその名前まで躊躇なく記してしまう無防備さによって証明されている。読者と作者のあいだにある知識量の格差によって作品に近寄りがたい奥行きのようなものを偽装して箔をつける、という一種の心の狭さが作品にあらわれるタイプの作家ではないということだ。心の狭い作家の作品など読みたくはないというのが最近私が自分の中に見出した意見だ。
 大槻氏は出自のさまざまに異なるアイテムをつなぎ合わせて作品をつくるのだが、それがいわゆるポストモダン的な作品(そういった作品をほとんど読んだことはないがイメージだけで語ることを許して下さい)の感触を生み出すのではなく、中心に読者の強い感情移入を誘わずにおかないような哀切な物語が据えられている。組み立てる材料として選ばれてきたアイテムにいちいち作者のそれらアイテムへの愛がうかがえるのと同じように、物語への愛も作者は隠してはいない。そして物語もおそらくどこかで作者が出会い偏愛の対象として今まで記憶し今ここに作品のために呼び出されてきたものである。なぜなら物語とはそのようなもの(個人が発明することはできないし、所有することもできない)だし、そのことを理解する作家のまなざしの距離がこの物語を、現代のわれわれが一本の川をへだてた対岸の風景を眺めるように、本当はもうわれわれのものではないかも知れない物語を少し涙ぐみながら見つめるのにふさわしいものにしているのだと思う。