今日かぎりの小説

ある文章が小説として読まれるための唯一の条件は、それが今まで書かれた小説とどこかしら似ているということである。今までに書かれたどんな小説とも似ていない文章、がもしも小説を名乗っていた場合、われわれはそれを悪い冗談と受け止めるか、あるいは作者の大きな思い違いや歪んだ信念のようなものを想像して、すみやかにその場を離れようとするだろう。



小説は小説に似ている。そう信じることが、われわれに小説を読むことを可能にさせる。小説の存在を信じない者は小説を読むことができない。小説の存在を信じ、目の前にある文章がまさしくその小説のひとつであると信じることで、ようやく小説が姿をあらわしてくる。小説らしさ、という頼りない手がかりを元に辛うじて小説は小説として読まれることができるだろう。



つまり小説は感染し、移動する。昨日まで小説ではなかった場所が、今日はもう小説であるかもしれない。今では小説とは似ても似つかないと思える風景が、かつて小説だったことがあるかもしれない。小説とそうでないものを分ける境界線は一定ではない。だがそれはひたすら広がりつづける領土ではなく、広がったり縮んだりしながら横へ横へと移動を続けるものだ。



われわれに文字があり物語への欲求がある限り、たとえ小説という名で呼ばれなくなったとしても、境界線は存在していくだろう。だがわれわれが今読み、書こうとしている小説が、明日もまた線の内側に収まっているという保証はない。明日になればもう誰にも読み方のわからないしろものを、われわれは今「小説」と呼び合っているだけかもしれないのである。

2002/12/12