小説の狂気

小説という形式には、正気ではないものが多く含まれている。

たとえば描写には、対象を細密に言葉に移し替えていく過程で、逆に対象そのものから遠ざかってしまう性質があることはよく知られている。部分を綿密に言葉で埋めていっても、対象の全体像には永久に届かない。たとえばある人物の外見を「貧相な男」とだけ書けば、読者はその人物を勝手にイメージの中に収めることができる。ところがここで細密な描写を用い「薄い皮膚の下でほお骨は死んだ甲虫のようにうずくまり、しまりのない口から青く血管の網目状に透けた首筋にかけてまばらに剃り残された髭が点々と……」とやり始めたら、その人物のイメージはどんどん小説の中に広がり出してしまい、まるで顕微鏡で人間を見ているみたいに、読者は人物の全体像を把握しにくくなる。

しかし「貧相な男」とだけ書くのは、読者が「貧相」という言葉と結びけて抱く紋切型のイメージに頼っていることになり、それを利用して小説を書く場合もあるが、それでは困る場合もあって、描写によって対象の瑣末な情報を読者に与えなければならないこともある。

ところが描写によって細部を言葉に切り出された対象は、そのかわりとして、ひと目で把握できるような統一された全体像をしだいに失っていくのだ。

小説というものがひとつの世界を構築できる形式だとしても、そこで構築された世界はどこか狂っている。それは破壊よりも構築の意志によって進行するような根深い狂気なのだ。

2002/03/17