短歌自習日(1)「口語短歌の狭さをどうする?」

はっきり言って、短歌というものは狭い。
べつに視野とか世間が狭いという比喩的な意味ではなく、ここで狭いというのは文字どおり、土地の面積が狭いという意味。短歌には、原則としてたった三十一音分の広さしか与えられていない。つまりオールひらがなで書いた場合、四百字詰め原稿用紙で一行半にしかならない。これは言いたいことがあってもろくに言えないサイズである。俳句はもっと狭いが、狭すぎてどうせ何も言えやしないというあきらめがつく。ところが短歌のほうは、ちょっと何か物を言いたくなるくらいのサイズではある。
試しに言いたいことを言ってみようとすると、たいてい中途半端なところで字数が尽きる。さらに口語短歌のばあい、文語よりも字数あたりに盛り込める情報量が少ない、という問題がある。文語のほうが口語より情報が圧縮されている(たぶん言文一致じゃなく、書き言葉専用にできているからだ)。だから少ない字数の中で微妙なニュアンスを伝えたり、効率よく複数の事物の処理がしやすい。三十一音という制限は、もともと文語に合わせたサイズなので、短歌は文語で書くのがいちばんよいのだ。
だがいうまでもなく、文語でつくられた短歌はふつうの人には読めない。少なくとも私は読めない。それは半分外国語のようなもので、読める人でも頭の中で意識的に翻訳しながらじゃないと読めない、という場合が多いだろう。すると短歌を読むという体験は、間接的なもどかしさをともなうことになり、ごく限られた人だけしか受け入れなくなってしまう。
口語は盛り込める情報量が少ない。だが口語でなければ敷居が高い。このあたりを解決する方法として、言いたいことをぐっと絞り込んで、ただひとつのことだけを言えばよいという割り切り方がある。
この方向でつくられた口語短歌は、しばしば標語やアフォリズムに近い印象になる。たとえば、私の好きじゃない歌人である枡野浩一の短歌には、この傾向がつよい。このタイプの短歌は、短歌を読み慣れない人でもすごく読みやすい、という特徴がある。平易な日常語を使って、日常的な情報密度で書かれているからだ。ごく当たり前に、身の回りにある文章と地続きのように中へ入ってゆくことができる。

ノーベル賞受賞程度でむくわれるほどおめでたい文学だとは  枡野浩一

でも、それではものたりない。やはり狭い庭であっても池は欲しいし、花も何種類も植えたい。そう欲張ってみると、それはそれでやってやれないことはない。レイアウトを工夫したり、あるいは池のサイズを半分にしたり、うまく省略すべきところは省略して、口語でも限界まで情報を盛り込んでみることは可能だ。
私は基本的にそういう方向で、短歌をつくろうと思っているし、今のところそれがベターなやり方だと判断している。穂村弘の短歌がこの方向の代表だろうか。口語には口語なりの情報の詰め込み方がある。口語の文脈だけに可能な、意味の重層性のようなものを、三十一音の中に畳み込む。穂村がそういう文体のパイオニアと言っていいだろう。とくに難解な言葉を使わないまま、われわれが日常的に目にする文章と較べて、言葉をぎゅーっと押し込んだような高密度の口語。そういうものでできている短歌だ。

ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり  穂村弘

ところが、そういう短歌でもやはり、読み慣れない人にはうまく読むことができないのだ。口語であっても読めない。圧縮された情報をふたたび解凍するため、ある程度の技術が読み手側に要求されてしまう。いきなり違和感なしに入ってこれる人は、たぶんあまり多くない。
口語短歌が文語の情報量に少しでも近づこうとすると、口語短歌にもなんとなく「短歌語」のようなものが発生する。文語ほどではないけれど、そこで読者を限定してしまうらしい。少なくとも、ひとつのことを言うだけに徹した短歌より、敷居の高いものになる。もともと世間は短歌など読み慣れていないから、この敷居はじっさい以上の高さとして人々の目に映る。そういう覚悟が必要になってくるだろう。
口語短歌を「たったひとつのことだけを言う」入れ物として使うのか。「いろんなことをたくさん言う」入れ物として使うのか。ここにひとつの判断どころがある。言い換えれば、口語であることに開き直って、口語の情報量に短歌のほうを合わせるのか。あるいは口語じたいに手を加えて、短歌のもともとの情報量のほうに口語を合わせるのか。そういう対照的な判断だ。
「どっちかひとつを選ぶ必要はないよ」「二つの中間ぐらいのところで作ればいいじゃない」という考え方がありそうだ。標語みたいにシンプルでは味気ないし、逆に難解になっては口語である意味がない。ほどほどに言いたいことを言って、しかし詰め込み過ぎない。目指すべきはそのあたりでいいんではないか。
だが私見によれば、その手の短歌がいちばん厄介だ。
それはたいてい、文語短歌を口語に直訳したようなものになるだろう。そういう作品を読むと、これが文語で書かれてれば少しはマシだったろうに……と思わざるをえない。文語体を外すことで微妙なニュアンスが失われる。ところがそのぶん、口語の工夫でニュアンスを補うということをされていない。無防備に投げ出されている。そういうタイプの短歌だ。
立派な文語の衣装を脱がされ、貧相な裸で所在なく突っ立っている。ちょっとちょっと、あんた口語だよ!とあわてて文語を着せてやりたくなるような、見ていて赤面してしまうような短歌。
それはやっぱり、人に読ませるようなもんじゃない。裸なら裸にふさわしいポーズをつけるなり、肉体を鍛えるなり、チャームポイントの臍や乳首をアップにするなり、見せ方というのがあるのであって、そういうの抜きでいきなり人前に出てくるのは反則だと思う。裸なのに「なんとなくまだ服を着てるような気がする……」という人たちが、無防備にいろんなものをブラブラさせている。本人は恥ずかしくなくても、見ているほうが目のやり場に困る。
あらゆるコスチュームを奪われ、残された素材は、あまりみっともいいわけでもない裸だけ。このマヌケな状態から人前に出せる写真をどう撮ろうかというのが、口語短歌の置かれた条件なのだと思う。