短歌自習日(2)「ぐずぐずの日本語以外、ぜんぶ忘れる」

日本語はもはや致命的なまでに「ぐずぐず」である、と考えてみる。
われわれの使う日本語は、ぐずぐずで、よれよれだ。話し言葉も書き言葉も、だらしなく変形してくずれつつあるようだ。本当にそうなのかは、簡単には決めつけられないかもしれない。ただ、実感としてはたしかにそうだ。日本語はぐずぐすになっている。そのことを激しく憤るなり、安らかな気持ちで受け入れるなり、人によって反応はさまざまだろう。でも、実感としてのぐずぐず感はおそらく共通している。
それと較べて、短歌につかわれる言葉は、今でも総じてしっかりしているように見える。背筋がまっすぐ伸びていて、いかにも優等生っぽい姿勢で、定型の中に収まっている。
たまには羽目を外した、不良みたいなポーズの言葉がまぎれこむこともある。だけどそれもちょっと観察すれば、優等生が不良のふりをしているというか、どこか身につかない不良っぷりが目立つだろう。何だか妙に姿勢がよくて、ハキハキしていて、とってつけたような悪態だけが浮き上がってしまったりもする。
これはなぜかというと、短歌をつくる人たちにとって日本語は、ただ単に身の回りに転がっている言葉というわけではない、ということだ。
つまり短歌をつくる人たちは、たいてい短歌をよく読んでいる人たちだから、身の回りにある日本語だけで短歌をつくるということがない。できない、と言ってもいいかもしれない。短歌をつくろうとするとき、そこらじゅうにありふれたナマの日本語より先に、今までに読んで来た短歌の中の言葉が、まず頭に浮かぶ。辞書として頭の中に常設されているのかもしれない。
その辞書をひらかないことには、短歌にはならない。たとえ現代のナマの言葉を取り入れるにしても、あくまで伝統的な短歌の日本語の枠の中に、部分的に取り込むことになる。
だから、現代のナマの日本語のぐずぐずな感じを、そのまま短歌にする人は少ない。
短歌をつくる人たちは、たとえ口語短歌をつくる人であっても、まず「短歌」のほうから出発し、そこから「口語」へ接近するという順番をたどりやすい。文語なんてぜんぜんわからないよ、という人でさえ、じつは文語ベースの伝統ある短歌の洗礼を受けている。そこからあらためて口語へ向かう、という人がほとんどだと思う。それは短歌をつくる人がみな勉強家であるという意味ではなく(その傾向はあるが)、たとえ短歌の伝統に無知であっても、知らぬ間に洗礼を受けてしまうのだ。
そもそも短歌という詩型に、文語をベースにした言葉の伝統がしみついている。それはとくべつ短歌を深く勉強した人でなくても、ほとんど先入観のように誰にでも刷り込まれているものだ。短歌は単に57577という字数の枠ではない。そこに盛り込まれる言葉の質や、イメージの質も伝統の支配を受けている。それは時代によって変化するが、おそらく日本語そのものの変化よりずっとゆっくりとした変化だ。日本語の忘れっぽさとくらべたら、短歌はかなり記憶力がよさそうだ。昔のことまでよくおぼえている。
短歌の詩型にしみついた記憶を、ぜんぶ洗い流すことをかんがえてみる。それは言い換えれば、57577という単なる字数の枠と、ナマのぐずぐずの日本語が直接出会うことを想像することだ。できあがるのはきっと、短歌を短歌らしく見せるような枠組みが介在しない、ぐずぐずの短歌。それは伝統を多かれ少なかれ踏まえた目からは、とても短歌には見えないしろものとなるだろう。
だが、こういうおよそ子供っぽいとも言える実験?に対し、ただ冷笑をあびせるようなものがもし「短歌」だとすれば、そんな「短歌」に興味は持てない。実験の結果「短歌」が「短歌」でなくなってしまっても、まったくかまわないと思う。57577という基本枠を捨てない限り、それはわれわれのよく知る「短歌」でなくなっても、依然として何ものかではある。その何ものかの正体を見極めることの方が、「短歌はこれまでどのようなものであったのか」を地道に復習することよりも、おもしろそうに感じるのもたしかだ。
短歌から口語へのアプローチではなく、口語から短歌へのアプローチを。
このようなやりかた、順番でしか、短歌という入れ物と、ぐずぐすの日本語との相性を試すことはできないのだとも思う。
ぐずぐすの日本語以外ぜんぶ忘れて、とりあえず短歌のことは全部忘れて、頭から追い出して、57577という字数枠だけをじっと見てみる。ぐずぐずの日本語が、この入れ物にどのように収まったら気持ちいいか、という実験に挑むようなつもりで、57577に言葉を流し込んでみる。
文語の、あるいは伝統のフィルタのかかった目では、ぐずぐずの日本語短歌を正しく評価できないだろう。たとえ「短歌」として評価はできても、「ぐずぐずの日本語」としての評価をきっと間違えてしまう。それほどまで、われわれは文語から遠く離れた書き言葉の地点にいるということだ。文語から現在のこの地点まで、道をたどりなおすのは時間がかかり過ぎる。いろんな意味で、たぶん時間切れになるだろうし、そうしなければならない理由もない。
短歌史への無知を積極的に利用して、今この場からすべてをはじめてみること。
この蛮行が肯定されるための条件はただひとつ。ぐずぐずの日本語を徹底的に使い切ることである。ぐずぐずの日本語のために短歌(57577)を使い切り、また短歌のためにぐずぐずの日本語を使い切る。
そのとき、作者のナルシシズムへの過保護のために定型と、ぐずぐずの日本語が利用されてはいけない。あくまでぐずぐずの日本語のために定型を選んだのであり、自分のために定型を選んだのではないということだ。優先順位としては。
ぐずぐずの日本語のために、作者がいけにえになるのである。