短歌自習日(3)「恐怖短歌への道」

怖い短歌をつくりたいという欲望がある。怖い小説や怖い映画のように、怖い短歌をつくることは可能だろうか?
「短歌における恐怖表現」というたぶんあまり誰も考えない(というか興味のない)ことに私は関心がある。関心はあるが、その関心をたいして深く掘り下げたことがまだない。
今日は最初のひと掘りをまず試してみようと思う。私の頭の中にある「恐怖短歌」のもやもやしたイメージに、とりあえずシャベルの先だけでも突っ込んでみたい。
以前ここに掲載した拙作のなかから具体例を二つ挙げて、恐怖表現に的を絞って読み解くことにする。まずひとつ目。

A.捨ててきたはずの赤犬 尾を振れば尾の残像として百合燃える

作品Aは「捨ててきたはずの赤犬」がなぜかここにいる、捨て犬の帰還、という事態の呈示がまず最初のポイントだ。はたして犬は、車で山奥に捨ててきたのか? 保健所に引き取ってもらったのか? 捨てたはずのものがひとりでに戻ってくる、という話は怪談の基本パターンのひとつでもある。
かつて「ポチ」とか「ロン」とか名前で呼ばれたはずの犬が、ここでは「赤犬」と一般名詞で呼ばれていることも気になる。また、単に「犬」と呼ぶより「赤犬」のほうが視線が観察的な気がする。予想外の帰還に立ち会っている者(元飼い主)と犬とのあいだに生じた、決定的な距離、違和感のようなものがここには感じとれるだろう。
この犬の存在のしかたはなんとなく亡霊的なのだ。
ところが「捨て犬の帰還の謎」に焦点をあわせるのは冒頭だけで、すぐに焦点は犬が振るしっぽ、しっぽの残像にうかびあがる燃える百合の映像へと移動する。
しっぽの残像に百合が燃えている、というのも不思議な光景だが、これじたいは恐怖というより幻想寄りの表現だといえる。幻想的な百合へ焦点が移ってしまったことで「なぜ捨ててきた赤犬がここにいるのか?」という冒頭の謎はすっかり置き去りにされ、一首は最終的に幻想に着地したという感じがする。
着地したからといって、しかし冒頭の謎は解消されるわけではない。
答えの出ていない空白部分を残したまま一首は閉じた。謎は謎のまま残され、赤犬の亡霊だけが一首をはみだして浮遊しはじめる。
捨てられてもどってきた犬が、捨てた飼い主にむかってしっぽを振っているのも気味が悪い点。普通は「哀れ」「けなげ」と取るところだが、先にあげた「赤犬」という表現がそういう受け取り方を阻んでいる。そんな甘い感情移入が通用する対象ではなくなっていることがここでは暗示されているのだ。
ではふたつ目。

B.梨を剥く男を見るな喪中につき白髪が伸び続ける人形

「梨を剥く男」が冒頭に出てくるが、なぜかその男を「見るな」と命じた上で一首は「喪中につき」「白髪が伸び続ける人形」とつづける。
「喪中につき」は「見るな」にかかっているともとれるし、「伸び続ける」にかかっているともとれる。その曖昧さで前半と後半を結び付けているわけだが、どちらにとったとしても意味的には腑に落ちない。
「喪中」だから「梨を剥く男を見るな」といわれてもまるで納得いかないし、「喪中」だから 「人形」の「白髪が伸び続ける」という理屈もまったく不可解だ。そしてそもそも「喪中」という事情が理由とされていることが、その不可解さの陰に何か恐ろしいものの存在を予感させもする。
一首全体の流れを見てみれば、冒頭の「梨を剥く男」の存在は、「見るな」と釘をさされたまま最後まで置き去りにされている。これは作品Aと同じ展開だ。「白髪が伸び続ける人形」といういかにも無気味なアイテムに焦点が合ったまま一首は終っているが、その恐ろしい人形と重なるようにして、存在を宙吊りにされたままの「梨を剥く男」が残像のようにちらつく……という狙いが感じられる。ある種の心霊写真のような効果を狙った一首だといえよう。
以上のような読みは、短歌にそもそも恐怖表現が可能であるという前提でなされているし、その恐怖表現の実例をここにあげた二首から曲がりなりにも読みとれるという前提でなされたものである。
このふたつの前提は当然、疑われるべきものである。
今私にとってたしかなことは「短歌と恐怖表現、というテーマは真面目にじっくり考えてみるだけの価値はある」というそのことだけだ。
この考えの根っこにあるのは、単にホラー短歌のようなものをつくりたいとか読みたいとかいうことでは全然なくて、そもそも小説でも映画でも、ホラー小説やホラー映画に限らずすべて基本的には「恐ろしい」ものでなくてはならないという、恐怖原理主義の発想なのであり、当然短歌だってすべて恐ろしいものでなくてはならないのだ、この立場からいえば。
我々の生まれたこの世界が恐ろしいものであるのと同じように、短歌もまた恐ろしい。世界への恐怖の上に短歌は成り立っている。そのことを実証するために、恐怖短歌はいつか必ずつくられねばならないのである。