短歌自習日(4)「短歌を読めない私のために ―寺山修司は恥知らずか?」

 短歌が読まれない理由、について考えるのは楽しい。無責任にあれこれ原因をさぐってみるのは、じつに楽しいことだ。だから私は時々考えるのである、短歌が広く読まれない理由を。
 何しろ自分自身が読まないのだから、世の中が短歌を読まないことにも不思議は感じない。私は、たぶん自分が短歌をつくろうという気さえ起こさなければ、今よりはるかに短歌を読まなかったことだろう。今でも全然読まないのだから、今より読まないといってもさして違いはないかもしれない。私が短歌をつくろうという気を起こす前に読んだ短歌、は寺山修司穂村弘だから、この二人については短歌をつくらない私でも読んだことになる。だが穂村弘に関しては、短歌をつくろうという気をかなり本気で固めてから、はじめて凄さが分かったようなところがあり、それまではじつはあまり好きではなかった。短歌をつくらない私、自作の足しにできないかと色気を出して短歌を読むようになる前の私が、本当に心惹かれていたのは寺山修司だけだった。
 たぶん今でも私は、本当の意味で惹かれてやまないのは寺山修司だけだと思う。
 ほとんど読まない短歌ではあるが中には、いいなあと思える歌は時々見つかる。けれどそう思うのはたいてい目の前に作品があるときだけで、視線をほかへ移したとたんその感情は消えてしまう。寺山修司だけは、目の前に作品がなくても大丈夫。体にインストールされているというか、ウイルスとして棲みついていることがわかるので、読んでいないときでもつねに影響されつづけているのだ。
 べつに暗唱できるという意味ではない。まったく暗唱なんてできないが、それでも寺山修司の短歌の核の部分は、自分を深く蝕んでいるのを感じる。すでに蝕まれているのに、あらためて作品を読めばまた影響されてしまうのだ。もちろん寺山の短歌だって、何か盗んでやろうという下心で読むときはよくある。だがそんな下心などたちまち解除され、問答無用で観客席に座らされてしまう力が、寺山の短歌にはあるのである。
 ただし、それは寺山修司の一部の短歌だけの話だ。ほぼ歌集『田園に死す』だけの話といってもいいだろう。それ以外の歌集に収められた歌は、私にとって特別なものではない。むしろ積極的に嫌いな歌だって多いくらいだ。『田園に死す』以前の寺山には、臭い芝居を見せられるような赤面モノの短歌が多くて、まあうまいと言えばうまいのかなあとか、ずいぶんかっこよく決めちゃってるなあとは思っても、とてもじゃないけど好きにはなれないのだ。
 私の解釈では、寺山はそういう自分の資質、芝居がかった臭い短歌しかつくれないという資質的限界を逆手にとって、『田園に死す』を書いたのだと思う。あれはいわば「メタ寺山」的な歌集なのだ。それまでの寺山は、短歌=芝居に読者が感情移入し、まるでそれが現実であるかのように受け取ることを期待していたように思われる。少なくとも、そう受け取られることを拒む姿勢はそれ以前の作品には見られない。だが『田園に死す』はそうではない。ここでは芝居の臭さそれじたいが見世物になっている。臭い芝居を、臭さに気づかない鈍感な客にそのまま受け入れてもらおうとするのではない。あくまでそれが「臭い芝居」であることを強調して客に呈示されているのだ。だから『田園に死す』は寺山短歌そのものではなく、寺山短歌を素材として使った自己パロディ作品である。
田園に死す』では寺山短歌が見世物になっている。それはまた、短歌という形式の限界が見世物になっていると言うことでもある。
 限界、という言葉でいえるほどはっきりした根拠は示せないが、短歌には独特の恥ずかしさがある。私は短歌を読むのが恥ずかしい。べつに短歌を読んでいるところを人に見られたら恥ずかしい、という意味ではない(それもたしかに恥ずかしいが)。短歌を読むことの恥ずかしさは、読みつづけているとつい忘れてしまいがちだ。けれどたしかに恥ずかしいのだ、短歌を読むときはいつも体のどこかがむずがゆい。ほとんど例外はない。個々の作者や作品の個性とは無関係に、短歌であるというだけで恥ずかしい何かがある、と思う。それは果たして短歌にかぎったことなのか、詩歌全般に言えることなのか、そのあたりはよくわからない。たとえば、小説は恥ずかしくない。恥ずかしい小説もあるが、それは個々の作品の問題であって小説のせいではない。小説であることが恥ずかしい、という感じはしない。むしろ個別の作品の恥ずかしさも、それが小説であるというだけで中和される何かがありそうなのだ。ところが短歌ときたら、短歌であるというだけで恥ずかしくて、短歌をつくるということだって当然ながら、顔から火が出るほど恥ずかしいのだ。
 これは長さと自意識の問題、のような気もする。短歌は、自意識がちょうど恥ずかしいサイズではみだしてしまう長さなのではないか? べつに自意識が漏れるような内容じゃなくても、短歌という形式が自意識を勝手に反映させてしまう。反映させているかのように見せてしまう。
 たとえ自意識を消し去るように書かれた作品でも、「自意識を消し去りたい」という自意識がはみだして見えてしまうのだ。だとすればこれは厄介だ。自意識を消すことが事実上不可能なのだから、短歌がこの恥ずかしさから逃れることはできないことになる。
 たぶん、われわれの現在の日常語から遠い言葉でつくられていれば、自意識の恥ずかしさは見えにくくなるだろう。それは言ってみれば外国語に近づくからで、自意識も見えないかわりに意味もたやすく読み取れない。そういう短歌であっても意味がすらすら読めるようになれば、やはり恥ずかしいのだろうか。それとも恥ずかしいのは近代人の自意識であって、近代的でない自意識が漏れても恥ずかしくないのだろうか。
 わからない。この先は考えてもわからないので引き返すが、ふたたび『田園に死す』の話である。
 短歌につきものの自意識のはみだし、が全開であるかのように見える寺山短歌が、『田園に死す』においては恥ずかしくないのだ。それはなぜか。
 どこもかしこも恥ずかしいはずの短歌の世界で、『田園に死す』だけが例外的に恥ずかしくない。
 それは『田園に死す』が短歌を使って、短歌の恥ずかしさを見世物にしているからだ。自意識を無意識にはみださせるのではなく、ナルシスティックに自意識をちらつかせるのでもない。まして自意識を必死で隠そうとしているわけでもない。『田園に死す』では、自意識がすべて芝居がかったポーズを決めて個々の作品に貼り付いており、その過剰な演技によってフィクションの領域に入り込んでいる。歌の内容が事実か事実でないか、ということとは無関係に、そこでは自意識が虚構なのである。短歌からはどうしたって消すことのできない自意識を、過剰に芝居がからせることで形骸化する。歌の中心的な位置に居場所を与えたまま、自意識を空洞化させる。それが寺山が『田園に死す』でとった方法だ。
田園に死す』の後、寺山が短歌を離れていったのも無理はないと思う。歌人としての自分の限界を素材にしたあとで、もはや何もやることなどないだろう。歌人の死んだあとに短歌が生まれないのは当然の話だ。歌人寺山修司を殺すことで『田園に死す』は成立している。歌人の死体の滑稽さが展示物になっているのだから。
 では、そんな『田園に死す』に影響された人間は、いったいどうやって短歌などつくればいいのか。その答えは私の中では、いまだまったく出されていない。私はただ恥ずかしさに耐えながら短歌をつくっているだけだ。つくるにはそれなりにエネルギーを使うので、恥ずかしさをひととき忘れることができるだろう。だがふと我に返って冷静になるとき、いたたまれないような気分に襲われる。自己嫌悪。どうして私はこんな恥知らずなものを書いてしまったのか? できるだけそのことから目をそらして短歌をつくる。『田園に死す』が例外的に恥ずかしくなかった地点、そこは短歌の死んでいる場所だった。つまり短歌の死後にあらわれる短歌が『田園に死す』だ。私は、そこからはるか後戻りした場所で短歌を、自意識の処理の中途半端な短歌をつくっている。
 短歌が広く読まれない理由は、べつに短歌が恥ずかしいものだからではないと思う。もしそうであれば、短歌の中でもとくに恥ずかし度の高い俵万智の歌集が、あんなに売れるわけがない。
 むしろ世間一般では、短歌の恥ずかしさはセールス・ポイントになるくらいだ。世間は恥ずかしい自意識など気にしないし、むしろ喜んで受けて入れてしまう。だから俵万智以外の短歌が読まれないのは、あれくらい読みやすいかたちで、いわば恥ずかしい短歌を恥知らずな技術を駆使してつくりだせる人が、ほかにあまり見当たらないからだろう。
 問題は、短歌の恥ずかしさに敏感に反応してしまうような人間が、むずがゆさを感じずに読める短歌がないことだ。俵万智を読めない人が読める短歌、がないのだ。短歌が宿命的に持つかもしれない恥ずかしさを、『田園に死す』のように屈折したやり方で消し去るまでいかなくても、どうにか耐えられる程度に抑えた短歌でさえとても少ない。
 だから自分も短歌をつくろうというぐらい短歌の世界に近づかないと、そういう恥ずかし度の低い短歌の存在は目に入ってこない。普通の人たちは、教科書に載っているような過去の歌人の他は、俵万智枡野浩一のことしか知らないのだ。俵万智枡野浩一の恥ずかしさに耐えきれない人は、それ以上短歌に近づこうとは思わないだろう。
田園に死す』のような方法でしか、短歌の恥ずかしさは消せないのだろうか。その点はもっとよく考えてみたほうがいい。ほかにも方法があるのかもしれない。あるいは方法といったものではなく、われわれの感覚のほうが短歌の恥ずかしさ、自意識への赤面といったものを感じなくなる可能性もあるかもしれない。俵万智に世間が赤面しないのとはまた違う意味で、短歌とわれわれ、日本語とわれわれの関係に変化が訪れ、短歌の恥ずかしさに反応する者がいなくなる。そういうこともないとはいえない。
 だがとりあえず現在のところ、短歌は恥ずかしい。少なくとも私は恥ずかしいし、ほかにも恥ずかしがっている人はたくさんいると思う。
 しかしこうも思うのだ。恥知らずであることが歌人には必要なんじゃないか。それは俵万智枡野浩一がそうだというのではなく、そもそも寺山修司がそうじゃないのか。『田園に死す』で寺山は自らの恥知らずっぷりを演し物にしたとも言える。だから寺山は単なる恥知らずではなかった(超恥知らず?)のだが、そもそもの資質として恥知らずでなければ歌人なんてつとまらないのかもしれない。
 自意識がつねにつきまとう形式(=短歌)を扱うことに何ら躊躇しないだけでなく、そういう形式を扱うのだという醒めた自覚があり、意識的に読者との関係を操作することができる。それは言い換えると、恥知らずだけどナルシストではない、ということになるだろうか。それがもしかしたら『田園に死す』のようなマジックを実現するために必要な資質で、何となく想像だが、俵万智にもそういうところがありそうな気がする。そうだとしても、ほかのいろんな点で俵と寺山は違うので、俵万智が『田園に死す』のようなものを書いてしまう可能性に期待するわけではないが、しかしちょっと期待してみたいような気も、やっぱりしないか。
田園に死す』がもしこの世に存在しなければ、寺山修司は私にとってまるでどうでもいい歌人だっただろう。そもそも短歌というものがどうでもよかったはずだ。私が多少なりとも短歌に興味を持ち、読んだり書いたりしていられるのは『田園に死す』があるからだ。私と短歌は『田園に死す』を介してつながっている。
 でも『田園に死す』は本当は短歌ではないのかもしれない。短歌を素材にした何か別なものかもしれない。それは私にとって短歌への入口のふりをした、じつは短歌からの出口だった。入ったと思ったら外に出ていた。私は短歌を素通りしてしまったが、しかしまた別な入口をみつけて短歌の中に入ってみた。しかしどこを見渡しても『田園に死す』が見当たらない。ここには『田園に死す』や、『田園に死す』によく似たものは存在しない。そのことが今は分かっている。
 穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』は『田園に死す』と似たところがあり、その意味で私にとってすごく惜しい歌集だった。好きな歌集だし、惹かれてやまない歌もあるし、こういうことがやれる人は穂村弘しかいないかもしれない、と思う。だが穂村弘は恥知らずではない。そして少しだけナルシストなのではないかとも思う。そのせいかやっぱり『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』は『田園に死す』にはなっていなかった。「まみ」という架空のキャラクターを持ち込んでも、自意識は形骸化されるところまではいっていないようだ。
 もとよりそうしたことが目指されたわけではないだろう。この歌集は恥ずかしさが少ない。とてつもなく恥ずかしい歌も混じっているが、そうでない歌が多いのでこれなら、私が短歌に興味がなくても読めたと思う。ここには戦略がある。短歌の恥ずかしさに自覚的な歌人だからできる仕事だ。
『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』は短歌の恥ずかしさを消し去ってはくれない。しかし『田園に死す』へと一歩近づく道が、口語短歌にもありうるのだということを私に示してくれた。寺山における自意識の形骸化は、文語のもつ形骸性を利用して実現されたようなところがある。穂村は、演技的にたどたどしい不思議ちゃん系女の子言葉、を使って『田園に死す』の形骸性に接近した。ただしその言葉は形骸として徹底されるわけではなく、むしろそういう言葉の描き出す内面のようなものを作者が信じているようにも見える。演技的な言葉の虚構性を離れて、架空のキャラクターの内面に寄り添うような歌も目立つのだ(そうなると今度は、普通の短歌よりもずっと恥ずかしくなってしまう)。そこが私にとっては「惜しい」わけだが、ここまで見せてもらえれば十分、といえるかもしれない。口語でもやれる。それを証明してくれただけで十分すぎる。
 この文章に結論はとくにない。短歌はこれからも恥ずかしいだろうし、その恥ずかしさとどうつきあっていくかが私の課題でありつづける。
 見て見ぬふりだけはとにかくいけないと思う。そのことはしっかり肝に銘じておかなければならない。短歌の中に浸りきっているとつい感覚が麻痺して、恥ずかしさに無自覚になってしまうのもいけない。私はあんなに恥ずかしかったのだし、今だってほら、こんなに赤面しているのだ。
 短歌など読まない人間、の視線をあくまで意識していなければならないのだ。ここでいうのはもちろん「短歌はよくわからないけど俵万智枡野浩一なら読める」という人たちの視線のことではない。「俵万智枡野浩一でさえ恥ずかしくて読めない」という人たちの視線だ。つまりそれは、私自身の視線なのだ。短歌を読まないもうひとりの私の視線である。それを意識すること。
 短歌など読まない私、のことを忘れないようにして、私は短歌を読んだり書いたりしなければと思う。短歌など読まない私がつねに、短歌を読んだり書いたりする私を背後から監視していることが必要だ。私にとってそれが、短歌の恥ずかしさと関わりつづけるとりあえずの心構えだと思う。
(ひとつ付け加えると「短歌の恥ずかしさ」は短歌のサイズに由来するというのはあくまでひとつの仮説です。サイズというより57577というリズムのほうに原因がある可能性だって、もちろんある。いずれにせよ自意識の問題がそこに関わっているのは、ほぼ間違いないと思う。)