文学の燃料

 すべての短歌は「恥ずかしい」ということについて以前ここに書いた。小説や詩や俳句とともに近代文学のジャンルのひとつである短歌が「恥ずかしい」のは、近代人の自意識が「恥ずかしい」からじゃなかろうか。小説はこの恥ずかしさを燃料として動いてるけど、短歌は近代人の恥ずかしさを燃料としては完全に燃やしきれず、燃えかすが定型のうちがわにけっこう溜まりがちなのではないか。というようなことを最近考えている。俳句より長くて制約もゆるい分恥ずかしさも57577の後半、77あたりに溜まりやすいかもしれない。
 これを完全燃焼させるには(つまり原則として近代人の自意識を装填したうえで、その恥ずかしい燃え滓を歌の内部に溜めないためには)連作とか歌集とかいう単位で自意識の取り扱い連携プレーがおこなわれる必要がある、と思う。この連携プレーのうえに作者の「反・恥ずかしさ」戦略がのっかることになる。
 私にとって馬鹿のひとつおぼえのようにくりかえし思いだされる「田園に死す」のやりかたというのは、生身の人間を排除した蝋人形のいる景色を連作・歌集単位で展開したうえで、そこへ火を放ってなにしろ蝋人形だから蝋製の自意識ごとすべてがよく燃え、短歌とは思えないほどの完全燃焼っぷりがみられる。
 これはやはり一首単位では実現できないことで、火にも勢いをつけることが必要だからそれなりの面積が用意されていなければならない。歌集は短歌を自意識ごとどれだけよく燃やしつくしたかという、その焼跡のみごとさで評価されていいのではないか。短歌がよく燃える歌集のつくりかたを発見してノーベル短歌賞を受賞したいと思う。