今読んでいる本

『この人の閾』保坂和志
 小説とは何だろうかといつも考えていて、考えるわりには小説をぜんぜん読まないので考えはほとんどいつも行き詰まってばかりいるのだが、この本を読みながら思うのは「小説は、一度だけ書かれる(読まれる)言葉の価値というものを信じない」ジャンルではないかということだ。
 つまりなんというか、ひとことでズバリ本質を言い表わしたり、これ以上はないという最高のかたちで何かを表現する、といったことを信じないのが小説ではないか。小説は、同じことを何度もちがう言い方で言い換えたり、あるいはほとんど同じかたちでくりかえすこともあり、そうやって表現の「最高のかたち」を追い求めているのかというとそうではなく、あるいは追い求めている場合もあるのかもしれないが、いずれにせよ到達したゴール地点に小説があるのではなく、行ったり来たりうろうろと歩き回る過程そのものが小説である。
 ひとことでズバリ本質を言い表わしたいというのは詩の欲望だろうか。小説は、何度も同じことを言い換え言い直しているうちに、言葉がすりきれてその下からあらわれてくるもののようだ。小説は言葉をむだづかいする。言葉で書かれているのだからたしかに何かを言おうとしてはいるのだが、言おうとしていることを言いそびれたり言い間違えたりして何度も同じ場所をうろつきまわることになっている。言葉がたしかに何かを意味するのだとしても、その意味になど大した意味はない、と思わせるくらい言葉をすりきれさせたときにはじめて小説が顔を出す。言葉と意味が一対一の関係をたもっているあいだは小説ではない。一の意味に対して言葉がいくつもつみかさねられて意味がほとんど意味をうしなったときに小説がはじまる。