短歌日記

田園に死す』は恐山の魅力を正しく文学化していた。同じように、映画『田園に死す』は歌集『田園に死す』の魅力を完全に映像化することに成功している。
歌集から九年後、寺山自身の監督したこの映画は当然のことながら、恐山の映画化としても素晴らしい出来だ。隅からすみまで恐山的なキッチュで迷路的な見世物芝居としてつくられたこの映画が、私にとっては歌集『田園に死す』に先行する『田園に死す』体験だった。

オープニング。寺山の声で歌集の冒頭二首が音読されたあと、次のようなシーンがある。

●墓地
おかっぱの女の子が正面を向いて、目かくししながら、「もういいかい?」
子供たち、草深い墓地の中にかくれる。「まあだだよ
低く、長閑にピアノの音。遠い日の記憶のように。秋海棠、萩、桔梗。
鬼の女の子、目かくししたまま、もう一度、「もういいかい?」
がらんとして、誰も見えない墓地の卒塔婆や墓標のかげから、「もういいよ」という声がきこえる。
鬼の女の子、目かくしをとると、ゆっくりとあらわれてくる子供たち、いつのまにか皆、大人になってしまっている。郵便配達人、洋装の女、軍人、子を抱いた母、満州浪人。

 寺山修司田園に死す草迷宮』(フィルムアート社)

打ちのめされた。それはたぶん、素晴らしい映画を見てしまった衝撃とはべつのものだ。
街を歩いて、ふと折れた曲り角の向こうに思いがけず現れた奇妙な風景。そういうものに似ている。その景色はじつは未知のものではなく、子供の頃から何度も夢に見ている。だが目がさめるとまるで思い出すことができない。ずっと頭の奥底にしまわれていたものが、ふいに目の前にあらわれたような衝撃。日本人の集合的無意識に閉じ込められるような悪夢感は、歌集のそれと同様である。
寺山短歌の娯楽性を確認するうえでも、必見の作品だと思う。