短歌日記

  • お金があったら歌集を買う

歌集は本屋にあまり置いていない。
だから短歌がエンターテインメントでもあり得る、という事実に人はめったに気づかない。かなりな読書好きの人でも、読書する本の選択肢に「歌集」は入ってこない。あれは国語の授業で鑑賞させられたり、老後の趣味で習ったり、習った人が新聞に投稿したり、自費出版した歌集を親類から贈られて捨てるに捨てられず困ったりするものだ、と思い込んでいる。
われわれにとって、エンターテインメントであることは商品であることとほとんど同義だ。商品として本屋でほとんど見かけない短歌は、どうやらエンターテインメントではなく、作り手が自分のためにつくるもの、つまり趣味や芸術(いわゆる「アート」ではない何だか崇高でシロウトの入り込む余地のない「芸術」)なのだと判断する。
好きか嫌いか、理解できるかできないかという以前に、商品として目の前にないのだ。金で買えない価値のある芸術や、金を出して買う気がしない趣味の産物ではなく、金を出しただけの価値はちゃんと手に入る商品として、短歌はまだまだ市場に出ていいと思う。
こういうことを、経済活動の滞っている貧乏人がいってもまるで説得力はない。だが私にも多少の想像力はあるので、「もしもお金があったら欲しいもの」について考えてみることはできる。短歌はもっと「歌集」として、書籍として魅力的なものになってほしい。書籍として競争力をそなえた歌集も出版されているようだが(大きな本屋では見かける)、まだ全然足りない。選択肢が少なすぎる。欲しいものを選ぶためには、欲しくないものも含めてたくさんの選択肢が必要だ。自分は何が欲しいのが、いまだ気づいていない潜在的な読者にとってはなおさらのことだ。
本屋にたくさん歌集が並ぶようになっても、べつに爆発的に売れたりはしないだろう。売れるのはべつに少部数でかまわない。偶然手にとった人がお金を払って買っていく、というシステムにひらかれていることは、それだけで意味があると思う。歌集を商品にして流通させるために、歌人さんはもっと売れるものなら何でも売っていいのになあ。

  • 自作でいちばん貧乏感のある(かもしれない)一首

なにもかもきらい「紙パックにしみこんだミルクの匂い」それだけを好き