恐怖の映画史

 ブックオフの棚にある本のなかから読む本を選ぶ。というのはやはり順序として間違っている。まちがいを承知でそうしなければならぬ事情、というものは確かにあるのだが、たまには間違いをたださないと歪みが大きくなりすぎて人生に悪影響が出はじめる。このところどうも徐々にそれが出はじめているらしいと気づいたので『黒沢清の恐怖の映画史』(黒沢清+篠崎誠)を(財布でも落としたということにして、思いきって)買った。2400円。軽い財布でよかったということにする。
 私は本をあまり読まないのだが、それは私に無駄な知識を得ることの喜びがなく、無駄な知識をたくわえるだけの記憶容量もないことと関係があると思う。私の関心領域はつねに非常に狭いのだが、多少ともその領域にかすっていそうな分野の本でさえ、たいてい最後までは読み通すことができない。ずばり関心領域の私のツボを、いちいち中山式快癒器のように押しまくって痺れさせてくれる本しか読みつづけられないのである。
 だから私の知識の量はいっこうに増えていかないし、関心領域も猫の額のように狭いままだ。おかげで私が夢中になって興奮して読める本などというのはこの世にほんのわずかしか存在していない。そのほんのわずかな貴重な本を、ブックオフに置いてないという理由だけで手に入れることを先延ばしし続けるのは馬鹿げたことである。ということを『黒沢清の恐怖の映画史』を読みながら痛切に感じている。しかしこれを読み終わってしまったら、つぎは何を読めばいいのかと考えるのは恐ろしいことでもある。黒沢清の映画を見たり、あるいはこの本で黒沢清が語っている映画を見ることでもたぶん代わりにはならない、というのが恐ろしいところだ。それとこれとは別なのだ。そして私は、こういう幸福な読書体験を与えてくれる本を読んでいるあいだしか、自分の関心領域やツボのありかを意識することができない。読み終えると同時に忘れてしまう。それが何よりも恐ろしい。