短歌日記/穂村弘の「古さ」

穂村弘の短歌は、ある時代のある文化的な風景の記憶を喚起する。
それはいつかどこかで見た光景、聞いた会話のなつかしさに充ちている。
文化的な記憶の断片を(これみよがしな引用ではなく、微妙に紋切り型と
ふれあった印象的なフレーズの集積として)一首に過剰に詰め込むことによって、
短歌がこんなにもなつかしいものになるのだということを穂村は発見した。
短歌をそういうものとして発明し直したといっていいだろう。

抜き取った指輪孔雀になげうって「お食べそいつがおまえの餌よ」  穂村弘

「シンジケート」は90年代の初め(91年)に出された、
80年代の思い出についての歌集である。
すでにとりかえしのつかない過去として、80年代の景色をうたったことで、
この歌集は胸をしめつけられるような美しさを獲得した。
穂村弘は最初から徹底してうしろむきな、古さこそが美質である歌人だったのだ。
うしろむきであること、古いことは、歌人にとっておそらく正しい資質である。
だが「手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)」(01年)の穂村は
うしろむきであること、古さに徹することを選んではおらず、その結果
それでもやはり「うしろむき」の歌人である穂村が、「はからずも」古さを
露呈しているかのような痛々しさが覗いてしまう。
かといって「シンジケート」の美しさが、もはや成立しないのもあきらかなのだ。
「手紙魔まみ」には、「シンジケート」にはなかったタイプの
しかし限りなく美しいこんな歌も混じっている。

いくたびか生まれ変わってあの夏のウェイトレスとして巡り遭う

この途方もないなつかしさが、「シンジケート」のように一冊の本として
あらわれることなど、やはりありえない話なのだろうか。