人間のいないドラマ

生きている以上多少なりとも労働はしなければならず、労働する以上人間とのつきあいというものは避けて通れない。したがって、生々しい人間の世界に身を浸からせずにこの世で生きていくことはできないわけだが、わたしは人間の世界で物語を発想するタイプではないので、これが困った問題になる。生身の人間の世界に自分も身を置きながら、なおかつそれを魂の抜けた人形劇のように眺める、という他人事の態度がわたしにはとれない。わたしは人間の世界に無関心ではなく、それどころか人間のことがいつも(悪い意味で)気になってしょうがないのであり、頭の中はいつも騒々しい人間たちで雑踏のように混雑している。AさんはBさんと表面上は仲良くしているがじつはBさんを嫌っていて、そのことを薄々気づいているBさんがその事実を認めたくないがためにAさんがBさんを嫌っていないという確かな証拠を欲しがっている……たとえばそんな人間世界にありふれた、それゆえ音量のでかいドラマをわたしは無視できないし、まるでスポーツ新聞の見出しのような大きさでわたしの世界は占領されてしまう。人間たちの蹂躙を受けているとき、わたしの頭はわたしに必要な物語を描き出してはくれないので、とにかく騒々しくて生々しい人々にはお引き取り願わなくてはならない。人間のいない景色を用意してはじめて、そこに人間の姿をした魂のない人形をならべてドラマを動かすことも可能になる。だがそんな脆い景色と芝居を長時間維持することは不可能なので、人形たちの静かなドラマはいつも、いつのまにか猥雑な人間世界の出来事の侵入によってあっけなく崩壊、雲散霧消し、つぎに人間を追い払ったとき頭の中でふたたび同じものを再現することはきわめて難しい。また一からやり直しである。働いて酒飲んで寝る、そんな生活への転落がこうしてはじまりかねない。