4/3のつづき

いや、こう考えるべきか。いかりや・馬場の両氏にはたしかに身体的な印象に似たものはあったし、その肉体が1960年代から数十年にわたってブラウン管に映し出されていたことも共通する。だがそれだけでなく、かれらの肉体が活躍の場を与えられていたテレビ番組つまり「プロレス」と「全員集合」にも大いに共通性があったのだろうということだ。かれらが神話世界の住人となるための条件として、「プロレス」と「全員集合」がともに神話的な反復を示しつづける舞台だったことは注目できる。性懲りもなく、たびたび炸裂する十六文キックと、たびたび天井から降ってくる金盥との類似。悪らつな凶器攻撃に気づかぬレフェリーへの、背後に迫りくる危機に気づかぬ男への、「レフェリー、凶器凶器!」「志村、うしろうしろ!」観客の発する悲痛な叫び声の類似。それらはお約束として繰り返される点のみならず、そこにつくりだされる景色じたいがよく似た匂いを持っていた。テレビカメラの見つめる移動式箱庭空間で、毎週いかがわしい神話的な芝居をくりかえす一座の、異形の座長たちの死。まだ若いメディアであるテレビにとってそれはおそらく初めて経験する何かであったし、今後もう二度と経験されない種類の出来事かもしれない。