短歌日記

何かが決定的にまちがっているような気は、つねにしている。短歌をつくるというより一見短歌のようではあるもの、それも短歌のふりをして短歌にいやらしく媚びているものをつくっているという気はするのだが、では、これぞ短歌そのものだという堂々たるりっぱな短歌がつくりたいのかと言えば、まったくそうではないし、短歌のふりをして短歌にまぎれこみ、じつは短歌を内側から破壊するスパイみたいなものがつくりたいというほど、大それた妄想にとりつかれているわけでもない。そういう妄想にはひそかに魅力をおぼえる傾向が全然なくはないのだが、じっさい短歌をつくるときには淡々と適度に短歌らしきものに似せよう、近付けようというぼんやりした無意識にほとんど身をまかせっきりで、形式への悪意なんてほとんど影もかたちも見当たりはしない。なんだかわたしは、最初からすっかり諦めきっているように従順なのである。それでいてけっこういい気になってそれなりに短歌らしくは見える、且つそれなりに現代的であるかにも見えたがっている短歌を、せっせとつくり続けてしまうところが決定的にまちがっている(というか醜悪である)のだが、たぶんわたしの力量でこのまちがい(醜悪さ)を正す道はただ一つしかない。短歌なんてつくるのを金輪際やめてしまう以外ないのだ。ところが今のところ幸か不幸か、短歌がじゅうぶんすぎるほど下手糞でいくらでも改善の余地があるために、改善のための工夫にかまけて本質的な問題から目をそむけていることができるということがある。昨日より今日のほうが比較すればいくらかマシになっている、ということが目に見えて確認できるため、自分が何か前向きに進歩し続けているかのような錯覚をおぼえることができてしまう。こんなのは進歩でも何でもなく、ただの相対的な改善にすぎないのであって、まあ進歩も改善も似たようなものかもしれないが、とにかく進歩しても改善されても事態の醜悪さそのものには何ら影響を与えはしない。いい短歌とか瑕の少ない短歌とか魅力的な短歌とかいった代物をせっせとつくるべく努めることは、文学とは何の関係もない行為だ。かといって下手糞のままでいれば文学へうっかり近付けるというものでも勿論ない。わたしは今どちらを向いてもあの、例の、ポエムというやつにでもたどり着くしかなさそうな寒々とした道の上にいる。あまつさえどっちにだかわからないが、とろとろとだらしなく歩いてさえもいるらしい。文学はいったいどっちなのか? いや、文学は地道な努力と向上のすえにたどりついたりする(そのことを期待してもいい)ようなものではありえない、としておこう。だからこの道が文学に続いていないことを悲しむ必要はない。けれど問題はこの道そのものの話ではなく、この道しか選べないわたしと短歌との関係のほうにあるのである。つまり誠に残念なことに断言しなければならないのは、少なくともわたしのつくる短歌(のようなもの)はこのままどれだけ「進歩」を遂げたとしても、文学とはいっさい無関係に終るしろものに違いない、というまぎれもない事実なのである。いささか暗い話になってしまうのではあるが。

時計屋の時計の針がさまざまの数字をさして思い遂げたり