知恵熱にささぐ

 数日前短歌がらみでちょっと特殊な経験(私にとって)をしたせいで、いま頭のなかで短歌の細胞が膨らみすぎてほかを圧迫している。しばらく安静にして頭の中の短歌をなだめすかして熱をとって大人しくさせないといろいろまずい後遺症が出るかもしれない。
 だからクールダウンのため、脳内環境の平常化のため脳の熱を解放する方向へ短歌のことを考えてみる。
 さてどっちだろう。
 その日。ネット短歌、という言葉が何度か出た。
「ネット○○」(○○には表現ジャンル名が入る)というのはうさん臭い言葉で、ネットで○○を発表するには何もハードル(審査員や編集者の評価とか)がないから、○○をネットの外で発表できない(才能がなくて)人でもネットならいくらでも○○が発表できてしまって平等。という事情でうさん臭いのだが、「ネット短歌」もそういうわけでかなりうさん臭くて欲望を刺激されない言葉である。
 ネットで読めるおもしろい刺激的なテキストは、ネットの外のジャンル名ではどこに分けていいかわからないようなものが多い。それはネットという環境の風土と密接にかかわりあって生まれたおもしろさであり、ネット○○のような植民地的ないかがわしさとは無縁な意表をつくような刺激がある。
 最初からネットの外での成功(名声とか金銭)が眼中にないような、金も名前も残らないネットの風土に殉じるいさぎよさをことさら賛美する気はないけど、まあとにかくネットと現実は別世界なので、おもしろさの規準もまるでちがう。ネット○○というものはたいていその部分に鈍感というか、つまり○○の面積を自分の居場所をつくるべくネットにまで都合よくひろげてみましたというばかりで、ネットなんて本当はどうでもいいというのが見え見えなのでうんざりするのである。
 ネット標準である横書きの短歌については「横書きの文章はたくさんの情報が同時に目に入る(人間の両目が横並びだから)ので、意味の飛躍・断絶のある歌でも飛躍・断絶をはさんだ両側が同時に目に入ることでいわばオーバーラップするので、縦書きのときよりもより大きな飛躍・断絶をはらんでも一首としてのまとまりがくずれにくい」ということにさっき気がついた。
 たとえばそういう点に意識や無意識が届いて利用してたり、あとはネット特有の話し言葉に近い文体とか、肥大しつつ拡散する感じの自我のあらわれ方とか、そういうものを反映させつつ「ネット短歌」ならぬ「ネットと短歌がぶつかってできた短歌」がこれから出てくるかも知れないし、もう出てきているかも知れないけど、そういう短歌(これが本当のネット短歌と言ってみてもいい)はどこで読むのがもっともふさわしいのかうまく想像ができない。印刷された歌集でもパソコンのモニタ上でもないような気がするので。(つまり「短歌」も「ネット」も母国ではない…。)
 どこにも定住できない感じの、居場所のない感じを濃厚にただよわせてそういうもしかしたら次のあたらしい短歌はあらわれてくるのじゃなかろうか。
 ネットでも短歌でもあってないような空間に。