その希薄さに仮説する

 以前から謎だったのは枡野浩一の短歌を「読む」ことのむずかしさである。読んでもおもしろいとは感じられないが、積極的に嫌うようなアクの強さも感じない。たとえば片岡鶴太郎の絵を見るとムカムカくるが、枡野浩一の歌を読んでもとくに腹が立つわけではない。「内容」として取り出せば反感を覚えそうな内容でも、歌として読むかぎり別段ひっかかりなく気持ちが素通りする。
 希薄というか、そこに実体として存在している感じが乏しい。読んでも読んだというたしかな感触が得られない。にもかかわらず、少なからぬ人に支持されていることがずっと不思議だった。魅力が理解できないからではない。そもそも読めないものを好きにも嫌いにもなれないのではないか、と疑問だったからだ。
 枡野氏の短歌は「読む」のではなく「唱える」ものだと考えてみると、かなり(私が)説得されるものがある。似ているとよくいわれる格言のように、文字の現場の手続きをなかばスルーさせ、読者の内部に直接エッセンスを吸収されようとする言葉(文字)と考える。そこには「読む」過程、つまり一字一字をリニアにたどっていく過程で出会う異物感やサプライズはない。
 私にとって短歌を含む文学は、リニアに文字と出会い直す過程を踏みさえすれば、既読作品でもその都度、見慣れぬサプライズ(あるいは異物感)を与え直してくれるはずのものだ。枡野氏の歌にはそういう通常(?)の文学にある構えが見られない。一読すればトローチのようによく溶ける言葉。あとは溶け出した成分が、読者各々に効果をあらわすかどうかという話である。
 とすれば枡野短歌が再読に耐えないどころの話でなく、初読すら不可能なのもすっきり納得される。そもそも「読む」位置に言葉が設定されているのではない。つまり再読にも耐える異物感やサプライズが設定されるかわりに、端から「反芻」を予定した言葉の配置がなされているということだ。
 再読されずに反芻される短歌。もともと短歌にはそういう性質(反芻されようとする)が含まれるのだろう。いわゆる愛唱性と再読性はおそらく厳密には矛盾するし、矛盾しつつ共存しようとする。それが私のイメージする短歌だ。枡野短歌はその一方をほぼ放棄したかに見える。それははたして短歌なのか。もちろん短歌なのだ、短歌のかたちをしているから。けれど短歌として読んだとき(つまり再読可能な文学作品として読もうとしたとき)それはまったく魅力的ではない。短歌を名乗り、短歌をかたどってじつは別なものを読ませる(唱えさせる)装置と考えれば、短歌としての魅力のなさにも理由はあるのだと思える。