俯瞰の地獄

 カレンダーを眺めていると、たとえば明日や明後日や、十日後や一ヶ月後のそれぞれの日付がホテルの部屋のようにすでにどこかに準備されていて、わたしの訪問(宿泊)を手ぐすねひいて待ち受けているような気がしてくる。
 この錯覚はけっこう不快なところがある。カレンダーが用意する一ヶ月なり一年なりにわたる来るべき未来をこうして「空間」的に把握してしまうと、何しろその「空間」は目の前にあるカレンダーの面積として意識されるわけである。したがって、カレンダー全体のさらに何百分の一しか面積をもたない窮屈な一日がえんえんと順番に自分を閉じ込めていくという窒息的なイメージで、未来が把握されてしまうのである。
 すべての来るべき日には日付と曜日が与えられていて、それだけでも未来があらかじめ決定されている気分になるのに、さらに自分の予定が書き入れられることでとどめは刺される。○月○日という日付の空間に私は必ず閉じ込められます、という契約に署名を書き入れるようなものだ。そしてたとえば九月一日に何か予定が書き込まれると、今日からの十一日分の日付がありありと十一個の部屋となって宿泊の予約が入れられたことがわかる。
 未来の日付はともかく、今日という日は生身の自分が身を置く現実として無限にひろがりをもっているはずなのに、カレンダー一日分の窮屈な面積にこの無限のひろがりもまた収まってしまうという奇妙にゆがんだ感覚が(カレンダーとともに生きる人間のひとりであるわたしには)たしかにある。今日という日の無限のひろがり。の中にある一枚のカレンダー。の中にある今日という日の無限のひろがり。の中にある一枚のカレンダー(以下無限につづく)。
 この合わせ鏡のような「現実」と「カレンダー」の相互入れ子構造は、無際限なループの途方もなさだけを感じさせるものではなく、ひたすら極小へと近づき続ける息苦しさ(ひとつひとつ前よりも狭い檻に移し替えられつづけるような)にみちているようだ。もちろんこの息苦しさはただカレンダーと現実の関係だけにあらわれるものではない。われわれがわれわれの現実を俯瞰する視点を得たときに必ずあらわれるものだと思う。俯瞰がこの地獄への入口になる。