恐怖が世界になる

 現実に起きたら恐ろしいことと、夢に出てきたら恐ろしいことというのは微妙に違う。映画で見たときに恐ろしいことというのはあきらかに後者のほうに近いと思われる。
『殺しのダンディー』(アンソニー・マン監督)の恐ろしさも悪夢の恐ろしさのほうに似ている。二重スパイの主人公は、エバリン(英国名)とクラスネービン(ロシア名)というふたつの自分のあいだを不安定に揺れ続けるのだが、世界はエバリン=クラスネービンの不安を正確に反映して迷路化していく。これはつまり悪夢のしくみである。世界が彼に不安を与えるのではなく、彼の不安が世界そのものと化すのだから、出口などはじめからあるわけがない。
 彼の身近にあらわれつづける不可解な出来事にはたいてい、いちおうの説明がつけられてはいる。だが写真家のミア・ファローがなぜいつも偶然彼の目の前にあらわれるのかについて説明はなかった。主人公も多少それをいぶかる様子を見せはしたものの、やがて平然とその「偶然」を受け入れるようになる。ここにもつまり夢の論理がはたらいている。この世界ではエバリン=クラスネービンが「こうなったら恐ろしい」と不安に思っていることと、「こうなったら嬉しい」と願望していることのいずれかだけが起きるのであり、その大半が前者で構成されているがゆえにこれは悪夢なのだ。
 俳優がみな「どこかにいた誰か」を強烈に思いださせようとする(しかし結局思い出せない)ような顔をしていることもこの映画の悪夢らしい完成度を高めている。1968年イギリス映画。