蝋製喜怒哀楽

 快速の止まらない駅の伝言板人間宣言を済ませてきた元・蝋人形のありさがはじめて目撃した人身事故の現場は、こうした事故のうちでもっとも酸鼻な様相を呈しており具体的にいうと裂けたシャツの切れ目から血液とともに内臓が線路にはみだしていた。
 たまたまホームには人がほとんどおらず、駅員があわただしく「救助」活動に奔走する隙にありさは線路におりてその内臓の散らばったひときれをポケットに隠した。名実ともに完全な人間になるためにそれは必要なものだと思えたからだった。
 大事なものを手に入れたうれしさでありさのいつも生白い頬は紅潮しているようだった。電車を止めるほどの絶望をかかえていたはずの人のひときれは、手のうえで生温かい静かな生き物のようにじっとしている。この部品をあるべき場所へと戻してやる方法がほかに思いつかず、ありさは薄い唇をひらいて臓器のかけらを含むとコップ一杯の水とともに流し込んだ。どうかこれで万事うまくいきますように! ありさはそう声に出さないで祈る、神様は信じてないから心に一万本のろうそくの炎を思い浮かべて。
 蝋人形には人間の外見だけがあり内容は何もない。ありさが飲み込んだつもりだったものは浅い口の奥で行き止まりにつきあたり、水といっしょに顎をつたって床に垂れ落ちてしまう。人の言葉を理解する蝋人形は人間まであと数歩に迫っているが、その数歩が蝋人形の歩みにとって無限の年月を意味するのはいうまでもない。ありさ人間宣言なる文字もまた人間は誰ひとり読めない蝋人形特有の記号で書かれていたのだから。