排水口

 煙草のヤニで汚れたスクリーンが、演技や特殊メイクではない本当に殺害されたばかりの若い男を淡々と映し出している。そのとき私は直前に駆け込んだトイレで、ひとりで用を足していた。トイレの蛍光灯は切れ掛かっており、頭上で点滅するせいで私の前に放尿を受け止める二種類の便器を生み出している。ひとつは見慣れた白い陶製の明るい便器で、もうひとつは雨雲のように陰気で地下世界への入口を示している四角い穴ぼこ。用を足しながらも私の耳は、上映中にもかかわらず声をあげてさわぎたてる観客たちの動揺をとらえている。やがて手を洗う私の前に大きな鏡があり、点滅する光の中で私はやはり二種類の顔であらわれる。暗闇のほうの私が灰色の歯をむきだして笑うと、ぽろぽろと口からあふれた歯が水流に巻き込まれ排水口に吸われていった。私は何も可笑しくなどなかった。
 観客はあくまでショー・アップされた殺戮場面が目当てなので、現実の残酷な死がスクリーン上で見たかったわけではない。それがスクリーンに映し出されたものである以上、物語の一部となった殺人は現実の殺人とはいえないかもしれぬ。だが撮影中にどんどん腐敗が進み変色していく男の顔は、物語の上では数分しか経っていないはずの真夏の児童公園に、現実の死者の時間をねじこんでいることを観客は無視できない。背後の滑り台を逆からのぼっていくたまたま居合わせた子供が、カメラを意識して何度もふり返り、そのたび撮影が中断して雲の位置が大きく変る。子供は死体に気づいていないか、死体そのものを知らないのかどちらかなのだ。でなければ死体の匂い始める傍らで、昼間とはいえ、幼児がひとりで遊び続けることなど不可能に決まっている。私は馬鹿馬鹿しさを隠せず眼だけで笑った。フィルムの入っていないカメラの前で、撮影のふりをして行われる殺人の様子が収められたフィルム。人は未だかつてそんなものを見たことなどないのだ。