変化する中原昌也。id:ishmaelさんの日記に応答しつつ

http://d.hatena.ne.jp/ishmael/20051204
 昨日書いた「初期中原昌也」というのは最初の作品集『マリ&フィフィの虐殺ソングブック (河出文庫―文芸コレクション)』を頂点とした、二冊目ですでにやや変質していく作風(があるとして)をほぼ指していたため、『あらゆる場所に花束が… (新潮文庫)』以降で眺めるとそこまで目立つ「小説化」の進行はないかもしれないです(でも分からない。『花束』だいぶ前に一度読んだきりなのだし)。


 中原の作風の変質のことは批評家の渡部直己が短編(掌編)と長編の違いという区切りでかつて論じていた(短編の方がいい。としながら両者は別物と言っていた)。だが一冊目から二冊目という区切りで変化を語る人があまりいなそう(という言い方は本気で探したことないから保険のようなもので、実際私はたぶんまったく見たことがない)だという事実が私に何となく「自分はもしかして中原の小説の最高の理解者なのでは?」という暗い妄想と、「自分ひとりだけが完全に勘違いした読み方をしているのでは?」という思わず正気に返りそうな鋭い不安とを同時にけしかけてくる。
 私としては中原の小説の中でも一冊目は異質で、しかもその特異な作風が隅々まで徹底された異常に完成度の高い作品集だったと思うのだが、二冊目でその出口のない完璧さから撤退を開始することで作家は、傑作しか書くことを許されなそうな不自由な立場に追い込まれることを逃れたので、現在まで書き続けられているのではないかと思う。
 私は以前中原昌也の小説がいちばん似ているのは蛭子能収の漫画だと考えた。
http://cat.zero.ad.jp/gips/f14.html
 蛭子もまたある時期から作品の異様な密度の高さを放棄した作家である(その点を指して似ていると指摘したのではないが)。でも私はここ二十年くらいの蛭子の漫画(ほんの一部しか目にしてないけれど)を全然面白いとは感じない(読もうとは思わない)のに対し、中原のほとんど手抜きのように見える最近作をたまに文芸誌で読むことは、読む前の不安定な期待感も含めて刺激的であることをやめていない。初期と現在とで何が違っていて何が同じなのか、ということが正しく見定められないかぎり『マリ&フィフィの虐殺ソングブック (河出文庫―文芸コレクション)』のあの衝撃がないがしろにされるようなソワソワする気持ちは続いてしまう。あれが小説だったとはちょっと信じられないような気持ちから未だ逃れられない私だから。