気が散る

 ここ何日かは咳の通りみちとしてもっぱら酷使されてきた私だが、今では鼻水の通路というか隘路としても休みなく提供されまくっている状態にある。咳や鼻水の出口は書物を読んだりモノを考えたりする器官のすぐ近所にあるために、今読書したり文章を打つことは皿やナイフや罵声が飛びかう夫婦喧嘩の発生している部屋の隅で、けなげに受験勉強する子供のような気分がしている(正確には、私はそこであっさり勉強をあきらめ親の喧嘩を無気力にぼんやり眺めている子供である)。私はどんなに貧乏に長いこと暮らしていてもホームレスをやる自信がつかないのは、すぐ横でばたばたと人が行き交う雑踏を尻目に店の軒下とかで眠りにつくことなど絶対無理だと感じるからだ。つまり私はものすごく気が散りやすい人間なので、ひとつのことに熱中するのがとても苦手であり、咳や鼻水にもすぐに気を取られてページにしょっちゅう挿み直す栞の位置がなかなか先に移動していかない。そして文章を打とうとすればこのように咳や鼻水のことばかり書いてしまいほかのことは何ひとつ書く気がしない。これは逆に咳と鼻水に熱中していることになるような気もする。だが咳と鼻水からほかのことへ気が散る、ということは起きないのだ。
『小説修業』は読了。小島信夫がおもしろすぎる。このおもしろすぎ方は藤枝静男のおもしろすぎる文章に通じるところがあるように感じた。

小説修業

小説修業