物語について

物語とはある種の見通しの悪さのことである。死角の存在を告げる遮蔽物がそこにあることを意識させる風景、が物語の風景である。そこが世界のすべてを見通せる場所でないことを暗示する何かが、つねに視界に入り込み続けているのが物語という状態である。遮蔽物を陰にまわりこめば、今しがたまで隠されていた景色が驚きとともに視界に飛び込んでくるだろう。だが新たな景色のひろがりに目が慣れてしまうと、そこにもまた視線を不当に遮りつつ物陰に誘ってやまない意味ありげな破れ目のようなものが見つかることになる。この果てしないくり返しこそが物語である。
したがって物語の風景はつねに世界そのものの面積と一致することがない。「物語世界」などと呼ばれる景色の俯瞰は正しくは存在せず、物語にとって世界はつねに取り逃がし続ける未知のものであり、無限に後退しつづける世界の果ては物語の輪郭を追いつかせることがない。たとえ自前に用意された架空世界を描いているのだと物語が主張しても、それが物語であるかぎり自らが内包する(と信じ込む)世界の面積にさえ追いつけないはずだし、追いついたと信じた瞬間に物語はその生命をさかのぼって形骸となり、自ら描いたと信じる世界の中に埋葬される。
世界とのありえない一致に渇く欲望と、一致へのにせものの希望によって物語は引き延ばされつづけるだろう。このようないわば“物語の正体”が、純粋な悪夢として絵解きされたものをわれわれは逆柱いみり氏のマンガ作品に見て取ることができる。入手困難な初期の『MaMaFuFu』は、まるでそれが豊かさであるといわんばかりに競って作品に持ち込まれる不純物を、徹底して物語から排除した凄みのある傑作。われわれが作品に触れる以前から体験しつづけている原物語状態とでもいうべきものを、終らない悪夢としてしかも猥雑に作品化した信じがたい作品である。おそらくこのような傑作をうかつに読まずに済むように、あらゆる作品はたえまなく作られ続けるのである。惨い死体を衆目から隠すためのあのブルーシートのように。