選評を読んで

自分の作品に対する評価を読んで感想なりを書く、というのはどう転んでも見苦しいものになるに決まっている。でも少し書いてみたいと思ったのは、ひとつは二人の選考委員から望外に高く評価してもらえていたことが大きいけれど、のみならず、評価の低かった選考委員の言葉も、作品が「誤解されてる!」という「作者」特有の言い訳がましい気分に私をさせるものではなかった、ということだと思う。また選評で評価が割れていたために、作品を自分から切り離されたものとして客観視できる距離が与えられた、ということもあると思う。で、自分がそんなに見苦しい状態にないと感じたので、書いてみるということです。


欠点の多い小説である、というのはまったくその通りだと自分でも思う。などと書くと「言われなくても分かってますよ」という開き直りにもとれるがそうではなくて、欠点はあるけどこれでいける、小説としてそこは欠けても致命傷ではない、これはこれで成り立つよという判断を自分では下したのだけど、そう受け取る読み方は、この場では少なくとも過半数に達しなかった、という現実を神妙に受けとめているということです。
新人賞の選考という場を抜きにしても(もちろん含めても)、たぶん私の書くものがある程度好意的に読まれるときは「面白いところはあるけど、そもそもこれでは小説にすらなってない」という評価を大筋でなぞり続けるのではないか、という気が今はしているわけです(全然おもしろくない、という最も多いだろう評価は別として)。


小説にならなくていいと考えているのではなく、何らかの形で小説になったらいいな、と、小説として応募するからには思うのです。だけど私のいる場所から、小説へと至る道はまだ本当は開通していないのも薄々、あるいは、よく分かる。今回は書き上げた時点で、かなりいいところまで行けたのでは、という手応えがあり、これはもしかしたらついに小説なのでは? という気持ちもちらちらと胸をかすめるくらいだったけれど、他人の評価はともかく、自分でもこれを小説だと言い張るためには、まだどこか目をつぶらなきゃいけない心当たりがあるのも確かで、そこのところは今回のこういう結果を鏡として突きつけられた、ような気がする。


しかしとにかく、もし全員から評価が同じように低いものだったら、私というあまり楽天的でない人間の性格からして、また書き手として器用さのまるでない、技術的な不自由を逆手に取ってどうにかしようとする資質(つまりあのようにしか書けない)からみても、書き続ける気力が大幅に減退した可能性が高い。だけど町田康氏と福田和也氏の選評は、私がこれからも書き続けることを強く肯定してくれるものだった。それによって私は生き延びたと思う。


書こうとしてたことをなんだか途中で見失ったけれど、このへんで。