階段について

小説を書くには小説そのものに小説以外の場所(日常という言い方をすると小説が非日常のように見えるから避ける)から小説へ登り込む階段のようなものをつくっておく必要がある。それさえ完成すればあとはいつでもそこから小説に入って続きが書けるので、たいていは小説の冒頭部分ということになるだろうけど、とにかくいい階段をつくること、階段を刻むのにふさわしい地形を自分の頭の中から探し出すことなどが重要な作業になる。
でも掌編小説の場合は話がだいぶ違ってくる。掌編は小説じたいにいつでも昇り降り自由な階段を取りつけることが難しい。その階段だけでたいていは字数が尽きてしまうから。だから掌編は書き始めであれ続きを書くときであれ、小説に向かう前に頭の中がすでに“出来上がって”いる必要がある。構想がという意味ではなく、小説という特殊な環境にふさわしいテンションをあらかじめ頭が用意するという意味。ふつうは書きながら書かれた言葉によって(あるいは「階段」としてすでに書かれた言葉を読むことで)持ち上げていく高さに、あらかじめ立っていないことには書き始められない。でないと書き始めても中途半端な高さに登ったところで字数が尽きる。
短歌などもそうだけど、すでに書かれた言葉(がないから)をあてにできない、まだ書いてもいない言葉を無根拠に信じられるちょっと頭のおかしい一種の興奮状態を出発点にしないといけないところが掌編にはあると思う。普通の小説が階段で一定の高さにのぼっていく過程を少なくとも途中までは持つのに対し、掌編はいきなりすごく高いところに立ってまっ逆さまに落ちてみせる飛び込みのようなものだと言える。その高い場所には小説以前に言葉の力を借りず自力で登っておかないといけない。