紙に書いた物語、の自由

物語が現実にある家だとすれば、私が必要としているのは家の間取り図だけだ。かつてそこにいたことのある、或いはいつかそこに行くことになるかもしれない家の間取り図。そのようなものとしての物語にしか本当のところは関心が持てない。私が“掌編しか書けない”理由の多くがたぶんここにあると思う。
ある物語の空間で、ひとまとまりの時間を経験するということに積極的な意味が見いだせない。間取り図を眺めて空想にふけるように、物語を気まぐれに出入りする断片的なエピソードにしか関心がない。だからたとえば小説で実際に空間への滞在を経験することには、快感もあるけど苦痛がかなり大きい。たまには現実の家を見ておかないと間取り図を眺めるときの空想がどんどん貧しくなるので、空想力の補給のためしかたなく読むといってもいいくらいだ。
なので私が惹かれてやまないのは、家が間取り図に変わってしまうような瞬間をもつ小説である。
ディックの作品ではしばしばそういうことが起こる。町だと思って歩いていたのが表面だけ整えられたセットだったり、景色だと思って見ていたのが書き割りだったとがわかるようなことが度々ある。そのような瞬間が訪れる物語をディックが描いているからではない。ディックの小説は、物語の破綻という物語を無事語りきるほど鈍重にはできていない。主人公の「現実」が物語の中で崩壊するとき、ついでに小説まで綻びて作者の無防備なうしろ頭までさらけ出すのがディックの特徴だ。
間取り図の上で登場人物という人形を動かしている姿まで読者に見せてしまう。だが、それは事故のようなものだ。作者は読者の視線になどまるで気づかず話をつづけている。物語への作者の登場という“前衛”的な見得が切られたわけではないと理解した読者は、しかたなく見なかった振りを続けるしかない。だが作者の頭はその後も何かと画面に映りこんでくるので、見たものを忘れるわけにいかない。家にいるのか間取り図を眺めているのかはっきりしない、宙ぶらりんな気分で読み続けなければならない。
そもそも紙に書かれた物語などすべて「絵に書いた家」なのだから、どれも間取り図にすぎないはずなのだが、たいていの物語は間取り図として眺めるには複雑すぎる。そしてその複雑さによって時間的・空間的な不自由さを作り出し、読者を束縛することがサービスだと考えられている。私は束縛ではなく自由がほしい。私は迷路を愛するが、入口と出口のあいだの束縛を受け入れるのは嫌なので、あくまで紙に書いた迷路、“上”方向へはつねに自由に開かれているいい加減さが保証されていることが条件だ。そのような物語、そのような小説はけして多くはないだろう。稀有と言ってもいいくらいで、それはそのような小説、そのような物語を必要としている人間がいかに少ないかを物語っている。