喜劇 眼の前旅館」より転載。


アンナ・カヴァン『氷』読了。何かうまくいえないよさのある小説だと思う。こういう抽象的というか、比喩に流れがちでユーモアのない文章は本来好みじゃないけど、それが美的なほうには向かわず、何か朦朧とした霧のような中に神経症的なオブセッションが影のようにつねに感じられるところがいいと思った。掴みどころのない言葉が、美的な効果よりも実際掴みどころのないものを掴もうとすることにこだわることでそうなっているというか。
カフカの名を挙げる評をよく見るし、実際読んでいてあちこちに影響も感じるけど、カフカよりずっと想像力の丈が個人的なところもいい。それがつまり神経症、つまりカフカ統合失調症的であるのに対しての神経症的な作家ということかもしれない。何か普遍的な危機の暗喩としてではなくあくまで個人的な強迫観念をなぞっているように読めるし、そのこだわりがもたらす作品の“狭さ”を隠そうとせず、“狭さ”によってある種都合よく物語世界が歪められている感じもいい。そのあたりは作風が似てるわけでもないフィリップ・K・ディックとの共通性も感じる。私は個人の顔がその世界の地形として裏から浮き上がってくるような作品にだけ惹かれるのかもしれない。私小説が読みたいのではなく、構築されたフィクションの景色や人物がすべて作家の分身であるような、つまり悪夢のような小説だけが読みたいのだと思う。
妄想パートから現実パートに(あるいはその逆も)とくに断りもなく戻る語り方がけっこう無造作に見えるところもいい。無造作であることは繊細であることと矛盾しない。むしろ繊細さを欠いた作家ほどこういう部分で言い訳めいた細工を凝らしがちだと思う。
結末部分にただよう一抹の“甘さ”もけして甘美さではなく、ただ一個の飴玉がもたらす限りのものとして諦めたように提示されている。けれどその“甘さ”はこの世界に見出された唯一の救いであり、言い換えれば飴玉一個の救いしかここにはもう残されていないのだということが、美的な酔いとは無縁な、ひたすら覚醒した残り少ない言葉で示されている。