「書かれるはずだった小説」の亡霊

まだ書かれていない小説について、われわれは何も想像することができない。それがどんなに魅力的な構想として、しかも緻密に準備されていたとしても、じっさいに小説として書かれる具体的な言葉が、そんなものはいくらでも無残に踏みにじることができる。

正確にいえば、いまだ書かれていない小説の構想には、踏みにじられるような実体は何もない。したがって「書かれるはずだった小説」に対する「書かれてしまった小説」の裏切りは、書き手の思い込みの中にしか存在しない。「書かれてしまった小説」が「書かれるはずだった小説」と比較される機会は、書き手自身の中でしかありえないのだから、具体的な小説が姿をあらわした時点で、かつての構想はなかったことのように放棄されてかまわないのだ。



しかし書き手が「書かれるはずだった小説」の亡霊に取りつかれることもある。構想の時点で見い出された魅力について確信が強すぎ、その再現こそが最上の結果を生むと信じられ、それ以外の方法がすべて姑息な妥協としか思えないことがある。

ここで注意すべきは、構想の魅力がはたして小説としての可能性に開かれたものか、そうではなく構想のレベルにとどまるがゆえに魅力的だったのか、という判断である。

この判断に際しては、抽象的な構想から具体的な言葉へ、という下向きの移植作業(つまり小説を書くこと)そのものだけでなく、具体的な言葉の側から抽象的な構想を、上向きに検証し直すような手続きが意味を持つ。つまり、書き手が現実に書くことの可能な小説の、具体的な条件(語彙、文章力、技術、教養など)を明らかにし、そこから構想の実現可能性を問うということである。



少なくとも今の自分に、この構想を小説化することは可能なのか? ……こうした問いは、構想を自分の能力的限界と照らし合わせることを意味するが、それは同時に、構想を小説という媒体の限界に照らし合わせることにもなるだろう。その構想がはたして、小説という具体的な言葉への書き換えに耐えられるものかどうか、という検証がおのずとここで兼ねられるということだ。いうまでもなく「自分の能力的限界」が「小説という媒体の限界」を超えることはないのだから、前者による検証は、後者によるそれを兼ねていると言えるわけだ。



「小説という媒体の限界」などという漠然とした条件を手探りするより、「自分の能力的限界」という身も蓋もない条件を目の前にひろげて眺めた方が、よりすっきりと「構想の実現可能性」が検証できる。そしてまた「身の程を知る」という手続きは、天才でない者が小説を書くうえでけしてマイナスにはならないのである。

こうして「書れるはずだった小説」の亡霊がめでたく成仏したならばそれでよい。それがやはり、この世に小説として肉体を得るべきものだと断固思える書き手は、自分の能力的限界を、小説という媒体の限界に近付けるべく努力を惜しまないであろうし、そうした無謀な信念が、時として無視できない結果を残す可能性もまた、否定することはできない。

2002/03/29