自作を読むということ

自分の書いた小説を読むことは難しい。なぜなら作者にとって小説は、じっさいに書かれた実物の小説である以前に、想像的に書こうとした小説でもあるからだ。書かれた小説そのものから、書こうとした小説の影を引き剥がして読むことは、書いた本人にとってほとんど不可能なことだ。それを可能に近付けるためには、まずは時間の経過が必要となる。

書き上げる過程の詳細な記憶が薄れた時点で、いくつもの新鮮な驚き(その多くは失望)をともないながら自作を読み返した経験は、小説を書いたことのある者は誰でもおぼえがあるだろう。その経験をくり返すことで、自分が書こうとし、またじっさいに書いてしまうものが、のちに他人の目に近づいて読み返すものと、どれほどかけ離れているかを思い知り、しだいにその誤差を念頭において書くようになるのだ。

つまり書き手は、自分が書きつつあるものを同時に読みながら書いているが、それは客観性にきわめて問題の多い読みである。だから自作を時間をおいて読み返す経験を積み、書いている過程ではけして客観的に読めない自作を、書き上げたのちの「未来」から冷静に読んで評価する自らの視線を思い出しながら書く、という操作が必要となる。あらかじめ誤差を計算に入れながら、書いている時点ではけして読み取れないものを「おそらく未来の自分はこう読むだろう」と見当をつけて書くのだが、それには自作を時間をあけて何度も読み返し、そのたびに新鮮な絶望にとらわれるという経験が意味を持つだろう。我々は目の見えない者が絵を描き、耳の聞こえない者が音を奏でるような困難を通過せずには、何も書き上げることができないのである。

2002/07/20